老いているのはわたしの姿ばかりではないことに気づく悲しさ・・・。
日赤の募金活動で各家庭を回っているけれど、それぞれ年を重ねきて、相応の年配者になっている。
当たり前のことはさておき、その老い方には差異があり、明暗悲喜こもごもと言った景がある。
生老病死・・・困難な道のりは身体の不自由に比例して望みを希薄にしていく。
某家庭では、不自由になった女主の財布を養女になった女が握り、わずかな金額もその彼女からという具合。
女主は養女に向かい「2000円ばかりの現金をくださいな」と言うので、驚いていると、
「人の力を借りてものを言うのね」と、ぴしゃり。
「だってね、デイサービスに行くと皆さんいろいろなものを下さるの。私だって何か差し上げたいわ」と、わたしに小さな声で呟いた。
立派な注文住宅の一角に日用品が雑多に積み上げてある部屋の籐椅子に座っている女主には勤め上げた貯蓄や年金があるはず・・・。今までの経由で、女主は養女に当たる人に法外な金額を援助しているにも拘らず、この会話である。
女主との会話の後、養女は庭の薔薇やシャクヤク、多種のハーブをわたしに説明して下さり、なにか言っていたけど耳に入らないほどの衝撃。
にっこり笑ってその家を後にしたけれど、心中は複雑。
「悔しいわ」と女主が呟いた声が抑えても抑えても胸のなかで膨らんでくる。
『大空の中の散歩』
平らかな地平線上の大空、雲に乗るというのでもなく空中を歩く二人の紳士たちの後姿。
二人は一人の人間の分解のように見えるが、それは会話を想起させるためであり、語り合うという空気を必然としたからに相違ない。一人より二人の方が存在感を増すし、倍増された重量感を否定できるからである。
つまり重力の否定である。《存在=重力》の決定的な観念を軽く覆す夢想は、現実への反旗である。この二人を見る鑑賞者は明らかに現実(現世)の側に立っているが、彼らは逆を目指している。
《こうありたいという願望》は、《重力の否定=自由》であり、観念、法則からの脱却、現実の風景への疑心である。
仮に地平が描かれていなければ、二人は単に空中に張り付けられたものに過ぎなないが、地平という現実によって二人の空中散歩が成立する。この現実の時空に見えない地平線をしき、二人を佇ませている。浮いているのでも泳いでいるのでもない想念の人である。
現実への静かなる反感・夢想の自由は、求心的というよりごく楽観的な風情を醸し出している。
そして精神界の軽やかさは、散歩の歩調をもって語りかけてくる。
(写真は『マグリット』東京美術より)
雪童子は革むちをわきの下にはさみ、堅く腕を組み、唇を結んで、その風の吹いてくる方をじつと見てゐました。
☆運(めぐらした)詞(ことば)を較(比べる)と、外(ほか)を兼ねている。
一人の蘇(よみがえり)を審(つまびらかにし)、訣(人と別れること)を普く推しはかる。
記には法(神仏の教え)が現れる。
で、父は、毎日毎日そこに腰をかけていました。どんより曇った、雨の多い秋でした。しかし、お天気のことなんか、父にはどうでもよかったのです。
☆父(宿命)は常に来世に居りました。ある曇った雨がちな嫌な日でしたが、父はそんなことには無関心でした。