日赤の奉仕活動を返上させていただきたいと願い出た折、
「あなたの近くだけでもお願いできませんか」との支部長さんの言葉に肯いたわたし、あれから十年をやむなく続けている。
合わせて二十年も経つと、みなさん親しみをもって接してくださるので、手間である以外のストレスは軽減されている。
ただ、親しくなったのと同時に、わたしを含めて皆さんそれなりに高齢化したせいもあって、各御家庭ごとの会話が長い。
のども乾き、ふらふらの態・・・。
けれど、わたしは思う。(微力ながら役に立っている)という実感である。
無理にもそう思い込むことで、人見知りのわたしではあるけれど、何とか続けている。
そう、わたし自身がこの奉仕活動でわずかながら成長してきているのかもしれない。驚愕の現実はわたしにある。
『光の帝国』
雲の散在する大空(昼の景)と林や水(湖・川・池)の辺に立つい家々(夜の景)の共存。
通常ではありえない心理的な情景である。
この作品におけるマグリットの真意はどこにあるのだろう。
どちらも、現実の景に他ならない。永遠と思われる自然の大気/光によって私たち人間は生かされている。
夜の景に見られる人間の進歩、帝国という国の規律の中に人びとの生活は守られ、かつ従順であることを約束させられている。
自然と人為の競合…自然(光)の恩恵に助けられると同時に、自然災害に苦慮した歴史は語るに足らない。人は過酷な状況に耐え忍びながらも、自然(光)の恩恵を崇め愛しんでいる。
夜の景に見られる光(人為)への驚嘆、《自然と人智》は共存の中に競合している。
どちらも強大な力を秘めており、大いなる糧と悲惨な罪を残している。わたしたちはこの景に生きている、生きねばならない。
(写真は『マグリット』東京美術より)
雪童子の眼は、鋭く燃えるやうに光りました。
☆説(はなし)が導く詞(ことば)の願いは、永(いつまでも続く)念(思い)の幸(幸福)である。
しかし、その後は、こういう話をするのをやめてしまいました。あきらかに父は、どんなことにせよ、そんなところで達成できるという希望をもう棄ててしまっていたのです。いまではもう、出かけていって、そこで一日をすごすことを自分の義務、おもしろくもない仕事だとしか考えていなかったのです。
☆後にこれらの事柄を語るのを聞きました。明らかにそもそも来世に達したならば、孤独は天のおぼしめしであり、来世で過ごすのは自身の本分だと考えたのです。