バス・電車に乗ると、白髪と化したわたしは即、席を譲られる。
昨夕も混んだバスに乗り入口付近でしがみついていたら、ずっと手前の席が空いたとたん…(どうぞ)の眼差しが連鎖し、わたしのところでピタリ止まった。
「も、申し訳ありません」口ごもりながら恐縮し、丸い背をさらに丸めて着席。
心中複雑…お仕事でお疲れのあなたがたこそ(どうぞ)の気持ち。社会のお役にも立てず遊び歩いての帰りに、こんなご親切に甘えて…本当に申し訳ございません。
70才、白髪の老婆の独り言でございます。
《リスニング・ルーム》
リスニング・ルームと名付けられたことによって、音を想起させるが、むろん音はどこからも聞こえてこない。言葉によって鑑賞者それぞれが作品から受ける印象を基に、それぞれ秘められた音を感じるかもしれない。物理的根拠のない記号(言葉)による追憶の範疇である。
室内いっぱいの青いリンゴ、窓外は田園風景、視線はこの部屋の中央にあるはずであるが、リンゴの上部が描かれている。視点はこの部屋を突き抜けたずっと遠くに位置しなければならない。
つまり視点は交錯しており、田園とリンゴは異なる視点から見た複合的な空間である。非現実的・不条理はこの時点から始まっている。
部屋が通常の大きさではなく、リンゴの大きさに合わせた極小の部屋である可能性を考えれば得心がいくが、《部屋とリンゴ》どちらを基準にすればいいかは、迷いなくヒューマンスケールを選択して然るべきではないか。
巨大なリンゴは何を意味するだろう。仮にリンゴを(知恵の実)と考えれば人間の持つ能力が既存の観念を超越しているという精神性の奔放、さらに言えば暴力的でさえある思考の飛躍を暗示しているのではないか。
この軋み、この不協和音が初々しい青いリンゴから洩れてくるという構成には皮肉が込められているとしか思えない。
マグリットの静かなる提示は、驚異的なエネルギーを孕みつつ存在の不合理を告発している。
(写真は『マグリット』東京美術より)
丘の稜は、もうあつちもこつちも、みんな一度に、軋るやうに切るやうに鳴り出しました。
☆究める両(二つ)が逸(かくれている)。
択(良し悪しを見て、より出し)圧(おしつける)説(はなし)であり、冥(死者の世界)を推しはかる。
母が父にすがりついて、行かせまいとしました。父は、もう手足の自由がきかなくなったせいで臆病になっていたのでしょうが、母にいっしょに来ることを許しました。こうして母も、おなじ病気にかかってしまいました。
☆母は父(宿命)を思い、放任させまいとしました。伝説に従い区分することを怖れたのです。こうして母の心も痛むようになったのです。