通常近隣とのお付き合いというものはほとんどないので、ご近所エリアであってもそれぞれの家庭の事情は伝わってくることはない。
近頃の葬儀事情にしても、家族葬が主流になった昨今、昔のようにご近所というだけで誘い合ってお焼香に行くという光景を見ることは少ない。
募金活動で各御家庭を訪問して初めて知る近況に、言葉を失うほどびっくりしている。
あんなにお元気だった方の突然の訃報…ごく至近でも道を一本違えただけで情報は伝わってこない。
(えっ、あの方も!)
空き家になってしまった家もここかしこ。
「この家の方も事情があって、今は売りに出されているらしいわ」
昨年訪ねたときにはにこやかに応対してくださった方の行方知れず…「倒産したらしいわ」口伝えにささやかれる事情。
にぎやかな子供の声も少なくなった今、近隣は同じように高齢を迎えている。
自然現象と言えばそれまでだけれど、あまりにも寂しい現況に絶句している。
『光の帝国』
夜と昼の景の融合・・・昼の自然光に対して夜の人工的な光の淋しさ。
淋しいというより、憂愁があると換言した方がいいかもしれない。
「光の帝国」と銘打っている。皇帝の統治する国家、支配下の光である。皇帝陛下を奉った社会を強国と信じ、民衆が従うというシステムが通用する世界の光のあり様を描いている。
光は国民の営為であり、努力・繁栄・進歩の結晶である。美しくないはずがない、立派な建屋やシャレた街灯・・・しかし支配下の不自由・重圧には、推して知るべき悲哀も含まれている、そういう光である。
それに対して、昼の光りである自然の明るさには計り知れない恩恵がある。
しかし、巨きな太陽光の恵みは、時として巨きな災害をもたらし、人々を苦しめる。そして、それを守り対抗しようとするのが人知としての「帝国の光」ではないか。
『光の帝国』に見る昼と夜の景色は、《自然と人智》の共存ともいうべき調和と闘争の展開を秘めている。
(写真は『マグリット』東京美術より)
狼どもも、まつすぐに首をのばして、しきりにそつちを望みました。
狼はロウと読んで、浪。
首はシュと読んで、衆。
望みましたはボウと読んで、茫。
☆浪(さまよう)衆(人々)は茫(はっきりしない)。
毎朝きまった時刻になると、戸口の取っ手に手をかけ、わたしたちのほうに別れの相図をおくります。夕方になるとー父は、日ましに腰がまがっていくようにおもわれましたー全身びしょ濡れになって帰ってきて、部屋の隅に身を投げだすのでした。
☆決定された時間になると、把手に手をかけ別れの合図をおくります。終末(死)が近づくと、父(宿命)は日ましに考え深くなり溢れるほどに(涙で)濡れて戻り、隅の方に消えるのでした。