紙芝居講座で、いざ主張実演となると腰が引ける。(できるかな、ムリ・ムリ)
30分の間に紙芝居ばかりでは飽きてしまいますから、途中に遊びを入れます。(えっ、歌を歌うの? ムリ・ムリ)
ど、どうしよう!! 舌だってもつれてうまく話せるか分からないのに
孫に話すつもりで(そういうつもりで参加している)、やればいいじゃん。う~ん…
とにかく、一生懸命やってみるつもり、お婆さんの一生懸命が伝われば、少々まずくってもゆるしてくれるね、きっと。(そう思うことにする)
70才の挑戦、胸張って行くぞ!(ドキドキ)
わたしが子供のころ、お寺に集まって「大きな栗の木の下で」などの歌や手遊びを教えてもらった覚えがある。映画(幻燈?)は「鞍馬天狗」だったかもしれない。懐かしい郷愁・・・恩返しできることに感謝している。
『ローズ・セラヴィよ、何故くしゃみをしない?』
デュシャンが引き受けた兄妹間のプレゼントであるが、そこにあるべき《喜びや満足感》がない。この無機質の集合から前向きの感情が湧き出てこないばかりか、無表情ゆえの腹立たしささえ感じる。プレゼントという愛情・好意の仲介を見ることができない。
角砂糖型の大理石・イカの甲・温度計・鳥かごなどは、人の一生よりは永続的であり、極めて普遍に近いものの選択である。(温度計は破損するかもしれないが、ガラスや水銀はその質を変えることはない)
万人が首を傾げ、しかも喜ばず、持てば想定外の重さがある。心外であり、ストレスになるような代物に価値を見いだせない。この物にあるのは《困惑》である。
《人生とはこのような見掛け倒しの重荷・不条理に満ちている。受理するに困難なほどの虚しい問題もある》兄から妹への大いなる教訓…デュシャンの達観の境地である。
(写真は『DUCHAMP』TASCHENより)
こうしたことは、なんら決定的な意味をもっていないかもしれず、ただ見せかけだけであって、それ以上の結果は、出てこないかもしれません。しかし、父は、大喜びするでしょうし、これまで父を悩ませてきたいろんな情報屋たちをこれでいくらかでもやっつけることができて、父も満足するかもしれません。
☆死は決定的な意味をもたないかもしれず、ただ見せかけだけであり、他の結果は明らかにならないでしょう。父(宿命)は、興味を抱き、父(宿命)を苦しませていた情報を少しでも追い払うことができ、彼自身も名誉を回復させるでしょう。