もう何年も…顔を見ていない。
十年ほど前、日赤でそのお宅を訪問したとき、招かれて、お茶をご馳走になったことがある。
今でいうママ友である。
「ずっと外に出ていないから、近所の人もね、たまに外へ出ると不思議なものを見るような目でみて、挨拶もなしよ」と寂しそうに笑った。
その後、訪問エリアを縮小したことで、そのお宅を訪ねることはなくなってしまった。(どうしているかな)いつも気がかりで、息子さんが自転車で通り過ぎると「お母さんは元気?」と聞いてしまう。
「はい、元気です」という応えが返って来るものの、やはり近所でありながら姿を見ることは皆無。
近所の人に訊ねると「息子さんが家の用をしているみたい、可哀想だわ」という。
こころの病いであるらしい彼女、いっしょに三浦海岸にお花見に行ったこともある・・・。
山菜の食材で作ったお弁当、「わたしの故郷じゃ、山へ取りに行って無料なのに、スーパーでは高値で売られていたわ」と、笑った。
一年のうち、日赤の奉仕の時にしか通らない道。彼女の家の前を通ったとき何か気配を感じた。
家の周りの立木の間、奥に窓があり、そこに彼女の眼差しが・・・。
「ああ・・・、元気だった?」
静かにうなづいた彼女に「わたしなんか、ほら髪の毛白くなっちゃって」と、髪をかき上げたら、少しおかしそうに笑ってくれた。
長いおしゃべりは彼女に負担かと思い「また、きっと会いましょうね。」とだけ言って通り過ぎた。
(お元気な姿が見られてホッとしました。)
わたしたち、まだまだ長生きするかもしれないし、元気でいましょうね。外へ出て元気にお話できる日を信じて待っていますから。
『天空の城』
巨岩石が中空に浮いており、その上に石造りの城があるが、城は廃墟だろうか巨岩石に同化しているように見える。
城のような大きな建屋を有した岩は、岩と認識するのが困難なほどの大きさであり、その巨岩石が中空に浮いているという景は重力圏内においてはあり得ない景色である。
重力の否定、律からの解放は《自由な精神》への嘱望である。
この巨岩石を現実に中空に浮かせるには、相当なエネルギーを要する。信じがたいほどの、むしろ爆発的と言っていいエネルギー(力)が、この巨岩石の中に操作してあるとは思えない。
つまり《不条理の景》である。
人の視線は水平線にあるけれど、この場合、巨岩石をも真正面に見ている。二つの視点、二つの空間の混在は幻想の中でのみ成立する景であり、この地上(地球の現在)の果てしないほどの超未来における残骸の景にも映るのである。
現在信じている景が、この宇宙のなかでどのような変貌を遂げるかは誰も知らない。「天空の城」が未来の地球の姿ではないと誰も断言できない。
マグリットは、壮大な宇宙(時空)の旅人のような眼差しを持っている。
(写真は『マグリット』東京美術より)
風はだんだん強くなり、足もとの雪は、さらさらさらさらうしろへ流れ、間もなく向ふの山脈の頂に、ぱつと白いけむりのやうなものが立つたかとおもふと、もう西の方は、すつかり灰いろに暗くなりました。
☆普く教(神仏のおしえ)の則がある説(はなし)である。
縷(細く連なる糸)のように現れる散(バラバラの)脈(すじみち)を帖(ノート)に吐く。
律の済(すくい)は、法(神仏の教え)を拝した案(考え)にある。
初めのうちは、その日のちょっとした体験談をしてくれました。たとえば、ベルトゥフが昔の友情から気の毒がって柵ごしにふとんを一枚投げてくれたとか、通りすぎていった馬車にこれこれのお役人が乗っているようにおもったとk、ときどき父をおぼえてくれている馭者がいて、冗談に革の鞭で父のからだを軽くたたいていくときうような話です。
☆初めに氏族の体験談を話してくれました。たとえばベルトゥフの古い友人がゲットー(ユダヤ人居住区域)を被ってくれたとか、通り過ぎていった車に、これこれの終わり(死)を見抜くように思ったとか、時々先祖を識別している馭者がいて軽く苦しみを落としてくれるというような話です。