続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

紙芝居講座3学期②

2017-05-12 07:23:55 | 市民講座

 〔有元典文先生の授業〕

 みんなとだからできる演劇空間の共創♪…いわゆる場づくり、共同作業によってみんながつながり一つの空間を共有するという働きかけ。
 人と向き合うときの誠意ある表情・距離・向きを心掛けること。

 そしてインプロゼーション(即興遊び)。
 ペア、あるいは四人組に対面し言葉や身体で連携していく。言葉を発し、身体で伝える。恥ずかしがっていては進まないゲームは脳を刺激し、何か活性化されていくようで、メンバー間で不思議な連帯感が生じて来るのを実感。

 持ち寄った紙芝居を一枚づつ出し合い、即興で物語を作り上げる。制限された時間に集中しての作業、有無を言わせず異なる物語を強制した結果は《思いがけない奇想?》に変移。それなりに楽しく笑いの絶えない授業。

 演者も観客も一体になるという空間づくり・・・。
 ステキな授業でした。
 有元先生、ありがとうございました。


マグリット《9月16日》

2017-05-12 06:49:46 | 美術ノート

 《9月16日》

 9月16日というタイトル、916はひっくり返しても916である。
 これは夜の景だろうか。
 三日月が南中しているが、三日月が地上に見えるようになるのは日没近くの西空である。
 日食の時に木漏れ日の影が日食の形(例えば三日月型)に悉くなることは知られているが、繁った樹木や葉の間から三日月が手前に見えることはありえない。

 現実にはあり得ない風景としての月のあり様(三日月)を、どう納得すればいいのか。物理的現実に奇跡や奇遇の異変は起らない。

 自然界に精神界の景(思い)を被せた風景は、一つの祈りの形にも見える。
 9月16日を逆さにすると、記号上は同じに感じても明らかに点(.)の位置は動かしがたく意味を同じにすることはない。
《ありそうで、決してない》のである。

 しかし(決してない)、そういう景が精神界では成立可能な風景として成就する。わたしたちは眼球の機能をもって対象を把握するけれど、精神の機能も同時に無意識に働いている。この絵はその告知でもある。


(写真は『マグリット』東京美術より)


『城』2636。

2017-05-12 06:20:17 | カフカ覚書

夜はリューマチが痛んでうめき声をあげました。朝になると、出かけたものかどうかと、ときどき迷っていることもありましたあ、やがて迷いをふりきって、出かけていきました。


☆小舟の評判が苦痛でため息をつきました。
 身元不明の死体公示所はときおり不確かで解決すべきかどうかを案じました。しかし、それにもかかわらず、出かけていきました。