続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

『飯島晴子』(私的解釈)97

2020-07-06 09:44:41 | 飯島晴子

   鳥総松よそにはよその灯がついて

 年神様のいらっしゃる間は各家庭もみんな同じ習いのもとに暮らすけれど、松が取れれば、各家庭はそれぞれ異なる灯りのもとでの生活が始まる。(残りの松の一枝を穴に挿す風習は、どんと焼きで焼き残った松の一枝を玄関先に置くのに似ている)

 鳥総松(とぶさまつ)はチョウ・ソウ・ショウと読んで、弔、葬、衝。
 よそにはよその(他所他所)はタ・ショ・タ・ショと読んで、多、諸、詫、初。
 灯がついて(灯点)はトウ・テンと読んで、悼、伝。
☆弔(とむらい)の葬(死者を葬る儀式)で、衝(重要)なのは、多く諸(もろもろ)を詫びること、そして初めて悼(悲しみ)を伝える。

 鳥総松はチョウ・ソウ・ショウと読んで、塚、相、肖。
 よそにはよその(他所他所)はタア・ショと読んで、多、所、他、所。
 灯がついて(灯点)はトウ・テンと読んで、塔、添。
☆塚(お墓)の相(姿形)は肖(似ている)多くの所では。(けれど)他の所では塔を添(付け加えたものもある)。
 


『飯島晴子』(私的解釈)96

2020-07-06 09:24:06 | 飯島晴子

   かくつよき門火われにも焚き呉れよ

 なんて強い門火(お盆の迎え火、送り火)なんだろう。わたくしは向こうへ逝ったときにも、こんなに烈しく焚いておくれ。きっと!

 つよき(強)はキョウと読んで、驚。
 門火はモン・カと読んで、問、化。
 われにも(我)はガと読んで、芽。
 焚き呉れよはフン・ゴと読んで、分、悟。
☆驚くような問い(質問)があった。
 化(形、性質を変えて別のものになる)芽(兆し)を分(見わけると)悟(わかる)のではと。

 つよき(強)はキョウと読んで、胸。
 門火はモン・カと読んで、悶、過。
 われにも(我)はガと読んで、描。
 焚き呉れよはフン・ゴと読んで、粉、語。
☆胸(心の中)で悶(思い悩む)過(あやまち)を描く。
 粉(入り混じって区別がつかなくなる)語(言葉)で(描く)。

 


『飯島晴子』(私的解釈)95

2020-07-06 07:32:41 | 飯島晴子

   気がつけば冥土に水を打つてゐし

 気がつくと、わたくしはもう現世ではなく、見えないもう一つの世界である冥土に、清めるための水を打っているらしい。どうしたことだろう・・・。

 気がつけば(気付)はキ・フと読んで、企、普。
 冥途はメイ・トと読んで、迷、図。
 水はスイと読んで、推。
 打つてはダと読んで、駄。
☆企(くわだて)は、普く迷いの図りごとであり、推しはかる駄(値打もない)。

 気がつけば(気付)はキ・フと読んで、忌、訃。
 冥途はメイ・トと読んで、命、途。
 水はスイと読んで、遂。
 打つてはダと読んで、妥。
☆忌(はばかる)訃(死去の通知)。
 命(天の定め)の途(みちすじ)を遂(物事をやりとげた)妥(おだやかさ)があった。


『飯島晴子』(私的解釈)94

2020-07-06 07:08:30 | 飯島晴子

   わが闇のいづくに据ゑむ鏡餅

 わが闇、心の深淵に必ずやいらっしゃるであろう神的存在。この深い闇のどこにそれは見いだせるのだろう。捧げるべきお供えをもって、わたくしは彷徨っている。

 わが闇(我闇)はガ・アンと読んで、雅、庵。
 いづく(何処)はカ・ショと読んで、華、庶。
 据ゑむはキョと読んで、拒。
 鏡餅はキョウ・ヘイと読んで、境、閉。
☆雅(風流な)庵(いおり)である。華やかな庶(人たち)を拒み、境(さかい)は閉じている。

 わが闇(我闇)はガ・アンと読んで、描、案。
 いづく(何処)はカ・ショと読んで、仮、諸。
 据ゑむはキョと読んで、拠。
 鏡餅はキョウ・ヘイと読んで、協、並。
☆描く案、仮の諸(もろもろ)を拠(頼りにして)協(調子をまとめる)並びがある。


R.M『喜劇の精神』

2020-07-06 06:41:47 | 美術ノート

   『喜劇の精神』

 喜劇とは何か、という問答。
 真っ直ぐに折り曲げ、幾つもの任意の形を刻んだ紙状のものを、さらに人型に切り抜き床面に垂直に立たせたという図である。
 もちろん、この形で立たせることは不可能であり、しかも斜面である。無理なうえに無理な状況を作っている。絶対に、有り得ない。

 吹けば飛ぶような紙、しかも穴だらけ。この穴は明らかに人為的な手の加わった形状である。
 傷痕、痛手、風が吹き抜けていく寂寥感。本来、とても立脚不能な状況で立つことの不条理。すでに自分自身であることを失っている。
 坂道を坂の下ではなく上を向いて進んで行く危険、何が起こるか分からない恐怖を孕んでいる。精神は隙間風(世間の眼差し)を受けるが、よく見ると辛うじて着衣の護身は持っている。

 世間の目に曝されて困難な立ち位置を笑いに変える。想像を絶するエネルギーは誰にも見えず、ただの紙切れと化している。観客との懇親の対峙、それが『喜劇の精神』である。


 写真は『マグリット』展・図録より


『やまなし』24.

2020-07-06 06:33:45 | 宮沢賢治

『やつぱり僕の泡は大きいね。』
『兄さん、わざと大きく吐いてるんだい。僕だつてわざとならもつと大きく吐けるよ。』


☆他意が混じっている。二つの文に諦(真理)が現れる。
 逸(隠れている)諸(もろもろ)の図りごとの目(ねらい/観点)は法(神仏のおしえ)の諦(真理)である。


『城』3453。

2020-07-06 06:14:37 | カフカ覚書

フリーダがどうしてやってきたのか、その尻尾をつかまえるのは、容易なことではありません。よほど注意をしていないとーいったい、そんなによく注意をしていらっしゃるお客さまなんてあるでしょうかーフリーダにはすぐごまかされてしまうのです。フリーダの容姿がどんなにお粗末であるかは、だれよりもフリーダ自身が最もよく知っています。


☆フリーダの足跡をとらえるのは簡単ではありません。どうして多くの人たちがたくさん追放されるなんてことがあるでしょうか。彼女にはすぐ惑わされてしまいます。フリーダの痛ましい様子は誰も正確には分かりません。