続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

『飯島晴子』(私的解釈)⑰+

2020-07-17 07:30:46 | 飯島晴子

   山かぞへ川かぞへ来し桐の花

(山かぞへ川かぞへ来し)、どう考えても、地上からではなく空撮のような表現である。そして桐の花。
 桜の花は北上する。桐の花も山かぞへ川かぞへ・・・北上する。これを言っているのではないか、つまり日本列島南から北へとほぼ全国にわたり桐の花を見ることができる。(鹿児島から北海道南部辺りまで)
(山かぞへ川かぞへ来し桜かな、なら分かりやすい)

 山はサンと読んで、参。
 かぞへ(数)はスウと読んで、趨。
 川はセンと読んで、旋。
 かぞへ(数)はスウと読んで、枢。
 来しはライと読んで、頼。
 桐の花はトウ・カと読んで、頭、化。
☆参(仲間に加わり)趨(ある方向に進んで行く)。
 旋(仲を取り持つ)枢(要)は、頼りになる頭(トップ)の化(教え導き)である。


R.M『風景の魅惑』

2020-07-17 07:08:05 | 美術ノート

   『風景の魅惑』

 垂直に立つ額縁、すでに不条理な世界である。額縁があれば風景はその中に収められているものと思う。しかし何もなく透けて見えるのは背後の漆黒、闇である。
 PAYSAGE、風景と記された額縁、鑑賞者はあらかじめ与えられた観念(過去のデータの集積)によって判断する傾向にある。

 血の色をした赤い壁に立てかけられた猟銃は《死》を想起させる。あたかも額縁の中の風景(世界)をぶち抜いたような関係を匂わせており、少なくとも否定の暗示を感じてしまう。このほとんど直線のみで構成された画には自然(風景)の片鱗すら見当たらない。魅惑されるべき風景が見当たらないのである。

 この眺めの中にあるものは、不条理と空漠、暗澹たる深淵であり、死を境にした精神界の混沌である。


 写真は『マグリット』展・図録より


『やまなし』33.

2020-07-17 06:33:34 | 宮沢賢治

 親子の蟹は三疋自分等の穴に帰って行きます。

 親子はシン・シと読んで、真、死。
 蟹はカイと読んで、解。
 三疋はサン・ショと読んで、算、諸。 
 自分等はジ・ブン・トウと読んで、次、文、問う。
 穴はケツと読んで、訣。
 帰ってはキと読んで、鬼。
 行きますはコウと読んで、講。 


☆真(まこと)の死を解(さとる)。算数(見当をつける)諸(もろもろ)は、次(二番目)の文を問う。
 訣(人と別れる)鬼(死者/亡霊)の講(話)である。


『城』3461。

2020-07-17 06:26:34 | カフカ覚書

しかし、フリーダのことにかんしては、いままでのところ訂正していません。だとすると、なにも訂正することがないのでしょう。ほんとうのことばかりなのでしょう。


☆しかし、訂正していません。訂正が正しいのであれば純粋に真実なのでしょう。