続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

『飯島晴子』(私的解釈)初夏の。

2020-09-18 07:27:48 | 飯島晴子

   初夏の大きくてさびしいオムレツつくる

 5・9・7である。どうしてもこの文字数を外せない句とは何だろう。
 初夏の、大きくて、さびしい・・・オムレツ・・・。
 すごい!
 大きく光を放ったかと思うと、寂しく消える、オムレツ(レモンイエロー)の黄色!!初夏(5月ごろ)の蛍(ゲンジ)、ホタルの余韻である。

 初夏のはショ・カと読んで、暑、夏。
 大きくてさびしい(大寂)はタイ・ジャクと読んで、耐、弱。
 つくる(作)はサと読んで、嗟。
☆暑い夏を耐える。弱いので嗟(嘆いている)あぁ・・・。

 初夏のはショ・カと読んで、書、加。
 大きくてさびしい(大寂)はタイ・セキと読んで、他意、析。
 つくる(作)はサと読んで、再。
☆書き加えた他意がある。
 析(分けることで明らかになる)再(ふたたび)・・・。


『飯島晴子』(私的解釈)畦草に。

2020-09-18 07:14:10 | 飯島晴子

   畦草に乗る蛇の重さかな

 畦草は田と田を仕切るものであり、比ゆ的には家と家を仕切る境でもある。
 その境界に乗る(冒す)蛇(女人)の存在には計り知れない重さが潜んでいる。

 畦草はケイ・ソウと読んで、計、双。
 乗るはジョウと読んで、常。
 蛇の重さはダ・チョウと読んで、拿、調。
☆計(図りごと)は双(二つ)ある。
 常に拿(捕まえ)調べることである。

 畦草はケイ・ソウと読んで、系、総。
 乗るはジョウと読んで、醸。
 蛇の重さはジャ・チョウと読んで、邪、徴。
☆系(つながり)が総てを醸す邪(や)。
 徴(前兆・前触れ)がある。


R.M『永遠の明証』②

2020-09-18 06:48:07 | 美術ノート

 永遠の明証、つまり不変の論理である。
 しかし、この作品は観念を打破するような組み立てである。普通は絶対にこうはしない、という鑑賞者の否定を孕む仕掛けがある。

 直立した人体(女体・裸婦)は、五つに分解されフレームに納まっているが、人体の形に添ってそのように置かれている。人体以外の何物にも見えず、人体として直感し、切り離された部分を元の人体としてつなぎ合わせて見るのはごく自然である。決してバラバラに認識しないし、また出来ないのである。

 人体が固定観念化されている、それ以外ないのである。
 見るという行為において各人の情報量に差異はあっても、動かぬ論理は潜在意識の中で固定化される。頭部の上に足はないし足の下に胸はないのである。
《絶対に》という普遍的なデータは、人の意識を縛るが、安定した答えを導く手立てでもある。わたし達はデータの集積に異論を唱えることはしない。

 見るという行為、認識は目で見るというより心理的な反映が多く支配している。心理は反復された観念によりあらゆる不条理を修復する傾向を持つ。
「本当に見ているのか」「本当に見えるのか」という疑問は、観念というデータに集積より簡単に打ち消されてしまう。
『永遠の明証』とは『観念の証明』である。


 写真は『マグリット』展・図録より


『城』3500。

2020-09-18 06:17:20 | カフカ覚書

服についても、助け手があらわれました。ふたりの女中たちが、同輩のよしみでこころよく協力してくれたのです。おなじ仲間のひとりが酒場娘に出世することは、彼女たちにとってもある種の名誉だったのです。それに、わたしが力をもつようになったら、いろいろ便宜をはかってもらえるだろうとおもったのです。


☆氏族についても助け手が現れました。二人の同僚が守ってくれました。彼女たちにとっても名誉なことだったのです。先祖の作り話はまさしく酒場(死の入口付近)の作り話であり、ペーピは彼女たちの助力のおかげで幾多の利益を手にしたのです。