続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

ハマスホイ『陽光に舞う塵埃、ストランゲーゼ30番地』

2020-09-25 17:12:32 | 美術ノート

  『陽光に舞う塵埃、ストランゲーゼ30番地』

 古い建屋の室内を真正面から描いている。美しいというより神聖な空気感が漂う窓。刻まれた時間は荘重な雰囲気を醸し出している。

 窓からの光の差込み、床面に落ちた光は部屋の静謐さを物語り、気配のざわめきを残して沈黙している。語るべき言葉はないのに震撼と胸打つ空気感がある。
 光は東から西へ、床面は逆に光を捉えて回転する。長い時間の経過は春夏秋冬、日々の差異こそあれまったく同じリズムで年毎に繰り返し刻まれてきた恒なる光の影である。

 光が空間(室内)を這う、その息遣いはこの家の歴史を空無に帰している。確かに人がいて、確かに幾多の物語が刻まれた部屋、今は静かな佇まいのみが画家を迎え、対峙している。なぜならこの景は、どうしても深夜の月影のような気がしてならない。昼間なら窓外も室内も明るいのではないか。
 満月の光度を彷彿とさせているこの景は、日本でいう中秋の名月を隠している。この平面的な絵は天空の月をも視野に入れた大きな絵であり、時の刻みをも見せている。(月が天頂にあれば影は入らない)斜めに入る光の先を延長した先に月は静かに輝いているはずである。

 眠りの中の月影、ひっそりとした室内は静かに語らうのである。

 写真は日経『デンマーク 室内の豊かさ』(下)より


『飯島晴子』(私的解釈)足もとの。

2020-09-25 07:26:05 | 飯島晴子

   足もとの劣情の白すみれかな

 足もとの劣情、隠しておきたい弱み(恥ずかしい)劣情がある。でも、同時に白すみれ(謙虚・誠実・無邪気)の純で可憐な心地の方が勝っている、そうに違いない。

 足もと(足元)はアシ・ゲンと読んで、悪し、言。
 劣情はレツ・ジョウと読んで、列、冗。
 白すみれ(白菫)はハク・キンと読んで、吐く、禁。
☆悪し(悪い)言(言葉)を列(並べ)冗(不必要なこと)を吐くことは禁じられている。

 足もと(足元)はソク・ゲンと読んで、則、厳。
 劣情はレツ・ジョウと読んで、烈、常。
 白すみれ(白菫)はハク・キンと読んで、魄、金。
☆則(決まり)は厳しく烈(精神が正しく強い)である。
 常に魄(たましい)は金(立派)である。


R.M『透視』

2020-09-25 06:55:13 | 美術ノート

   『透視』

 透視、感覚では不可知なものを超能力によって認知することであるという。
 卵を見て成鳥を描く、これをもって『透視』としている。卵が雛として孵り、成長になる、という時間空間が欠落している。

 時空を飛び越える、しかしこれはすでに経験上認知している事実に基づくものでもある。この情報は既知の事実であると確信している、結果このように描いたのだという『透視』。

 透視は非現実的である。しかし、現実的な情報の認知がなければ透視はあり得ない。《こうなるであろう》という予測、想像は経験値からくる。
 見えないものを見ることは不可能である。
 見たことのあるものの時間的経過を予知することは可能である。
『透視』に能力を超える現実はなく、情報の集積により想像する範囲を超える透視はない。

『透視』が現実に存在するとすれば、賭け事の面白みも研究の余地も失われてしまう。見ることはあくまで過去・現在・未来のサイクルの中での仮定にすぎない。
 この画(静止画)が次の瞬間を持つと仮定するならば、卵は卓から落下することは必至であり、画布(キャンバス)もまた画家の方へ倒れ込むはずである。(これを透視というか?)マグリットの皮肉である。


 写真は『マグリット』展・図録より 


『注文の多い料理店』41.

2020-09-25 06:31:39 | 宮沢賢治

 みるとたしかに壺のなかのものは牛乳のクリームでした。
「クリームをぬれといふのはどういふんだ。」
「これはね、外がひじょやうに寒いだらう。室のなかがあんまり暖いとひびがきれるから、その予防なんだ。どうも奥には、よほどえらいひとがきてゐる。こんなとこで、案外ぼくらは、貴族とちかづきになるかも知れないよ。」


☆個(一つ一つ)の語(言葉)は新しい我意である。
 換(入れ替わる)質(内容)の談(話)は予(あらかじめ)謀(計画し)、往(その後)に案(考えた)我意の記が続くという質(内容)である。