続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

『飯島晴子』(私的解釈)友多き。

2020-11-02 07:15:26 | 飯島晴子

   友多き鱸の海の朝日かな

 友多き鱸・・・優劣なく鱸はスズキであり、朝日は昇るしかなく日々の暮らしに逆行はない。世界は友であふれ揃って大海原の水平線から上っていく平等がある、権利がある。

 友多きはユウ・タと読んで、幽、太。
 鱸の海はロ・カイと読んで、露、開。
 朝日はチョウ・ニチと読んで、超、日。
☆幽(あの世)には太(極めて大きな)路(みち)があり、開けば超(かけ離れた)日(太陽)がある。

 友多きはユウ・タと読んで、雄、多。
 鱸の海はロ・カイと読んで、露、皆。
 朝日はチョウ・ジツと読んで、超、実。
☆雄(傑出した人物)の多くに露(現れるのは)皆、超(とびぬけて優れており)実(内容)がある。


R.M『空気の平原』

2020-11-02 06:36:56 | 美術ノート

   『空気の平原』

 空気を平らにすることは出来ないし有り得ない発想であり、絶対という言葉に相当する皆無の現象である。

《無》を《有》にすり替える言葉や視覚の魔術。空気の平原を頭の中で想定すると、雲表線のようなものを無理に考えてみるが、当然該当しない。
 あり得ないからである。
 作品は山頂でありながら、草木も生えない岩石だらけの平地に一枚の葉がつき刺さっているというか生えている、聳えている。異様に大きく、葉の形態を辛うじて保っているがその質感を全く感じ得ない代物である。

 葉にあたるのは逆光であるが、逆光に不審はなく納得の空間(景色)である。ただ違っているのは、一枚の葉のあり方が不自然極まりなく奇怪な様子を呈している点であって、自然の中に相の異なる不自然がある亀裂に他ならない。

 要するに観念と観念を否定するものが同じ空間に置かれている違和感である。
 一枚の葉とその周囲には見えない空気の膜がある。それは通常平原と称される平(平行)ではないが、観念を否定した世界から見ればその見えないほどの薄い幕(異なる物質/不条理)を平原と呼称していけないわけはない。条理を外した一枚の葉の世界から見た平原である。
 言葉や視覚の固定観念を外す・・・自由の入口である。


 写真は『マグリット』展・図録より


『注文の多い料理店』(了)

2020-11-02 06:29:29 | 宮沢賢治

 しかし、さつき一ぺん紙くづのやうになつた二人の顔だけは、東京に帰つても、お湯にはひつても、もうもとのとほりにはなほりませんでした。


☆逸(隠れた)詞(言葉)は普く認(見分ける)眼(要)である。
 悼(死を悲しむ)教(神仏のおしえ)は、鬼(死者の魂)の等(平等)である。


『城』3529。

2020-11-02 06:20:02 | カフカ覚書

こうしたことや、ほかにもいろんなことがありました。しかし、わずか四日間でした。わたしは精いっぱい頑張りましたが、四日間でフリーダがほとんど忘れられるところまではいったものの、完全に忘れられるというのは無理です。


☆これらは他にも生じたのです。しかしながら、ただ死の前のことでした。それに対しフリーダは死の前までに完全に忘れ去られるということはありませんでした。