続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

『飯島晴子』(私的解釈)豆ごときでは。

2020-11-30 07:22:18 | 飯島晴子

   豆ごときでは出て行かぬ欝の鬼

 鬼は外、福は内・・・豆をまいて鬼を追い払う神事。でも、悲しいかな、この欝の辛さは豆ごときの呪い(まじない)では払拭できないという嘆き。

 豆ごとき(豆如)はトウ・ジョと読んで、闘、如。
 出て行かぬはスイ・コウと読んで、推、講。
 欝の鬼はウツ・キと読んで、打つ、記。
☆闘う如し、推しはかる講(話)を打つ(当てる)記がある。

 豆ごとき(豆如)はトウ・ジョと読んで、套、叙。
 出て行かぬはスイ・コウと読んで、遂、考。
 欝の鬼はウツ・キと読んで、打つ、奇。
☆套(被って)叙(述べること)を遂(やりとげる)考えである。
(心を)打つ奇(珍しさ)がある。


R.M『夢』

2020-11-30 06:55:49 | 美術ノート

   『夢』

 裸婦像である。細密に描かれた一糸まとわぬ肉体は右手を岩石の上に置いている。不変の石と結びついているが、右の壁面には同じ角度からの映像が影として映っている。

 もちろん有り得ない映像であり、異次元との併合である。
 性的でもなく神々しいという印象でもなく、実にリアルな肉体そのものであるが、彼女は目を閉じている。こちらを見ておらず、一方的にこちらが見ているだけである。

 この場面は相当に高い位置にあり、川や野原を遥か遠くに見下ろしている。空中飛行の裸婦、しかも地上の岩石がある。
 切れ切れの時空、女の立ち姿の真正面、背後の疑似映像、重複の画面ではなく影という設定の不条理。

 まさに精神現象であり、空想の域である。
 面影・・・母への強い執着ではないか。自分を生んだ母への思慕、この裸婦像は『夢』であり《聖域》である。

 
 写真は『マグリット展』図録より


『城』3546。

2020-11-30 06:17:27 | カフカ覚書

フリーダは、なにも言わないのです。ビールをテーブルに置くと、そのまま行ってしまうのです。彼女がお金をかけた唯一の品物である絹のスカートが、さらさらと衣ずれの音をたてるだけです。


☆フリーダは何も言いません。死の入口付近だと欺き(だまして)行ってしまったのです。(問題は)唯一、何のためにお金を支払ったかというだけです。