続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

『飯島晴子』(私的解釈)鯉の尾の。

2020-11-27 07:20:47 | 飯島晴子

   鯉の尾のふゑゆきて父冷ゆる板戸

 池の中では新しい生命が続々と誕生している。でも、ひとり父だけは体温を降下させ救急搬送に至ってしまった。容赦なく惨い現実である。

 鯉の尾のはリ・ビと読んで、利、美。
 ふゑ行きて(殖行)はショク・コウと読んで、飾、考。
 父冷ゆるはフ・レイと読んで、封、礼。
 板戸はハン・コと読んで、範、娘。
☆利(頭がよく賢く)美しい。
 飾(手を加えて奇麗にする)考えを封(とじこめ)、礼(人の護るべき正しい行い)のある範(手本)の娘である。

 鯉の尾のはリ・ビと読んで、理、備。
 ふゑゆきて(殖・行)はショク・コウと読んで、嘱、講。
 父冷ゆるはフ・レイと読んで、二、例。
 板戸はハン・コと読んで、判、個。
☆理(物事の筋道)を備(あらかじめ用意してある)。
 嘱(委ねる)講(話)は二つの例(たぐい)がある。
 判(可否を定める)個(一つ一つ)がある。


R.M『エルシノア』②

2020-11-27 06:46:07 | 美術ノート

 奥が見えないほど深く、空が透けるほど薄い。樹の上に住居があり、安定を欠いている場所がわたくし(マグリット)の居場所である。風(風評)にも揺れるが、数多の樹に支えられている。樹は普く真っ直ぐに立ち並び密集している、それは、わたし(マグリット)の信念でもある。

 このものは大地に根付いているが、根(根拠)は見えず、必ずしも明確にできるものではない。
 薄曇り、紅(紫)が懸った空はこの緑の林に離れがたく一体化している、なぜなら空は自然の空ではなく、わたくし(マグリット)の空だからである。きわめて個人的な世界観、個人的な律で構築された作品群は、この『エルシノア』が根拠である。

 この平面的なバリアのような林に、他者が入り込む余地はなく、固い信念に崩壊はない。しかし、この信念への理解は無用である。直立の木々、葉の密集、人家の屋根が一枚に統合される滑稽ともいえる強引さは噓に違いないからである。

 この虚偽こそが、現実と非現実を結ぶ媒体(通路)となりうるのではないか。ここに於ける必然はわたくし(マグリット)の胸中にあり、説明の義務もないと断言したい。

『エルシノア』、これはわたくし(マグリット)自身の表明である。


 写真は『マグリット展』図録より


『城』3545。

2020-11-27 06:33:56 | カフカ覚書

フリーダが頼みこんでそういう風にしたのではありません。フリーダがいくら切願したところで、クラムの耳にとどくはずはありません。しかし、あのいけ好かないフリーダは、だれにもわからないつながりをもっているのです。わたしがあるお客様に言葉をかけるときは、あからさまに言いますから、となりのテーブルにも聞こえます。


☆彼女が願ったのではありません。フリーダがいくら懇願してもクラムは来なかったでしょう。でも、感じの悪いフリーダは接続(つながり)をもっていて、先祖の幽霊と話します。自由な話はテーブルの傍でも聞くことができるのです。