続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

『飯島晴子』(私的解釈)日に勢ふ。

2020-11-05 07:27:23 | 飯島晴子

   日に勢ふ白髪太郎の白毛かな

 白髪は減退である、日に勢ふような眩しい状況ではない。
 日に勢ふ白髪は不可逆の定理を覆す発見であり、あえて白髪太郎と異名をとる毛虫に着眼した、その機知に拍手を送りたい。

 日に勢ふはジツ・セイと読んで、実、成。
 白髪太郎はハク・ハツ・タイ・ロウと読んで、吐く、発、替、労。
 白毛はハク・モウと読んで、博、朦。
☆実(内容のあるもの)を成(作っている)と吐く。
 発(明らかにするには)替(入れかえる)労(ほねおり)があり、博(大きく広がる)朦(おぼろ)がある。

 日に勢ふはカ・セイと読んで、何、声。
 白髪太郎はハク・ハツ・タイ・ロウと読んで、迫、発、態、労。
 白毛はハク・モウと読んで、魄、耗。
☆何かの声に迫(追い詰められる)と、発(外に現れる)態(様子)に労(疲れてしまい)魄(精神)は耗(すり減ってしまう)。


R.M『絶対の探求』②

2020-11-05 06:54:53 | 美術ノート

 あるがまま、この時空を絶対とみ見ることなく、その奥にある真実を探求する。換言すると《無》あるいは《虚》に向かっているようにも見える。存在の裏側、存在を支えるものは見えない幻だからである。
 今見えているものには肯定がある、肯定せざるを得ない。なぜならば、当人を含む時空だから否定すれば該当する人物さえ霧消し総てが空に帰してしまうからである。

 にもかかわらず『絶対の探求』には、わたし達が絶対に感じ得ない光景が描かれている。すべてが見たことのない根拠に欠ける虚偽の風景である。
 無ではない。物理的根拠を無視し、概念を暴力的に打ちのめす光景である。
《絶対に有り得ない》光景を捏造している。死とか冥界というのでもなく、生を偽造している光景である。

 生と死の亀裂を垣間見るような異次元への逃避。絶対はこの否定しかない架空の隙間からしか垣間見えないものなのだろうか。探求とは近視眼的であるばかりでなく、対象から離れた位置からの調査を含むことであれば距離は確かに隔絶され、否定は受け入れられるべき条件である。


 写真は『マグリット』展・図録より


『城』3531。

2020-11-05 06:30:22 | カフカ覚書

人びとは、好奇心からだけでももう一度フリーダを見たいとおもっていたのです。飽き飽きするほど味気ないとおもっていたものが、それ以外の点ではまったくとるにも足りない人間であるあなたの手柄によってふたたび人びとの関心をそそったのです。もちろん、わたしがここにいて、わたしの存在の影響力がつづいているかぎりは、みなさんも、わたしを犠牲にするようなことはなさらなかったでしょう。けれども、お客さまは、たいていは中年の人たちで、いったんなじんだ習慣からはなかなか抜けだしにくいのです。


☆うんざりするほど荒涼としていて、あなたにとって全く何の利もなく重要でもないものが再び魅力と化したのです。そのために、もちろん現在はその影響力で、古く重苦しい習慣を超えられないのです。