続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

『飯島晴子』(私的解釈)狂院の。

2021-02-01 07:12:45 | 飯島晴子

   狂院のまはり青田の泥細かく

 狂(キョウ/教)院は、学校。まはり(周)は、衆。
☆学校の衆は青田刈りに泥(こだわっている)。狂(滑稽)であり細(取るに足らないこと)である。

 狂院のまはり(狂院周)はキョウ・イン・シュウと読んで、教、隠、蒐。
 青田はセイ・デンと読んで、省、伝。
 泥細かくはデイ・サイと読んで、泥、再。
☆教(おしえる内容)が隠れている。
 蒐(探し求め)省(注意して見るように)と、伝える。
 泥(こだわって)再(繰り返すこと)である。

 狂院のまはり(狂院周)はキョウ・イン・シュウと読んで、怯、因、修。
 青田はショウ・デンと読んで、章、伝。
 泥細かくはデイ・サイと読んで、泥、塞。
☆怯(おびえる)因(もと)は修(おさめた)章が伝わる(ばれる)ことである。
 泥(こだわる)塞(砦/塞いだところ)がある。


R.M『世紀の伝説』

2021-02-01 06:32:17 | 美術ノート

   『世紀の伝説』

 地平線から遥かな高さを持つ石造りの巨大な椅子がある。その上に小さな木製らしい椅子があるが、遥か下からではそれは見えない。
 人為的にはとても制作不能の石造りの椅子。
(主なる神はとこしえの岩だからである…わたしのほかに神があるか。わたしのほかに岩はない。『イザヤ書』より)

 巨大な岩づくりの椅子(地位、然るべき場所)は巨大に過ぎ見ることは叶わない。大地に散らばる石は《つまづきの石》かもしれない。どうしてこれほどの巨大な椅子が築かれたのかを知るものは無く語り伝えられた伝説によるものである。
 椅子の上の小さな椅子は確かに存在するようであるが、地上からはあまりにも高い位置に君臨しているので、やはり有るらしい、確かに在るのだという確信めく言い伝えである。とすると三位一体の父子霊の父子は椅子にあるが、霊は空間全体に秘かに漂う煌めきのような物に値するかもしれない。

 わずか百年くらいの人の生命体の成し得る術ではない。偉大である、大きすぎるほどの伝説は《世紀》を謳歌している。いつかこの地(世界)が滅び去ることがあっても頑なに残存する形があるに違いない。
『世紀の伝説』に対する畏敬は、真偽を越えている。人間は有機質ゆえ燃え果てるが、『世紀の伝説』は無機(岩)である。


 写真は『マグリット』展・図録より


『城』3583。

2021-02-01 06:24:20 | カフカ覚書

ぼくが現在フリーダから袖にされた、あるいは、きみの言葉で言うと、フリーダが助手のひとりと逐電してしまったというのは、間違っていない。真実は、きみにもほのかながら見えているわけだ。また、フリーダがぼくの妻になるようなことも、実際まずありえないだろうね。


☆わたしは。フリーダから離れ、今に至った。きみの表現の助手と完全に切れてしまったというのは正しい。仄かに真実は見えている。そしてフリーダがわたしの妻になることも真実ではなく、完全にまったくあり得ないことである。