続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

『飯島晴子』(私的解釈)晩年の。

2021-02-12 07:25:57 | 飯島晴子

   晩年のくちびるひらく冬霞

 晩年はバン・ネンと読んで、番、念。
 くちびるひらく(唇開)はシン・カイはと読んで、進、回。
 冬霞はトウ・カと読んで、答、和。 
☆番(組み合わせ)の念(考え)を進める。
 回(まわして)答を和(調合する)。

 晩年はバン・ネンと読んで、盤、捻。
 くちびるひらく(唇開)はシン・カイと読んで、辛、改。
 冬霞はトウ・カと読んで、問う、過。
☆盤(わだかまり)が捻(ねじれる)のは辛(苦しい)。
 改めて問う過(度がすぎる/ゆきすぎ)を。

 晩年はバン・ネンと読んで、板、燃。
 くちびるひらく(唇開)はシン・カイと読んで、薪、解。
 冬霞はトウ・カと読んで、投、火。
☆板を燃やし薪(焚き木)にする。
 解(ばらばらにして)投(なげ入れる)火のなかに。


『飯島晴子』(私的解釈)一月の。

2021-02-12 07:11:07 | 飯島晴子

   一月の畳ひかりて鯉衰ふ

☆一月(冬)の陽は低い。だから、室内までも陽が入りこんできて、畳を明るく浮かび上がらせる。すると今まで同質だった襖と畳の関係が崩壊し、襖に描かれた鯉が暗く沈んで勢いをなくす(衰える)という現象が生じるわけである。

 一月はイツ・ガツと読んで、何時、合。
 畳ひかりて(畳光)はジョウ・コウと読んで、状、交。
 鯉衰ふはリ・スイと読んで、理、推。
☆何時、合(太陽と惑星が同方向にある)状(状態)になるのか、交わる理(物事の筋道)を推しはかる。

 一月はイツ・ガツと読んで、逸、合。
 畳ひかりて(畳光)はジョウ・コウと読んで、常、講。
 鯉衰ふはリ・スイと読んで、裏、推。
☆逸(隠して)合わせる。常に講(話)は裏(物事の内側)を推しはかる。

 一月はイツ・ガツと読んで、逸、合。
 畳ひかりて(畳光)はジョウ・コウと読んで、冗、考。
 鯉衰ふはコイ・スイと読んで、故意、出。
☆逸(気楽)に合わせる。冗(不必要)な考えを、故意に出(やっている)。


R.M『ガラスの鍵』③

2021-02-12 06:42:26 | 美術ノート

 この巨岩石の成り立ちを考えられない。違和感ある巨岩石を見る場合、たいていは噴火によって吹き飛ばされたものである。当然落下するのであって、これ以上の高い山はないという秘境にも等しい天辺の稜線に乗ることなど考えられない。
 もちろん決して考えられない場所の設定である。在り得ない状況への畏れ、戦慄の光景は自然を越えており、超自然は人間界の思惑を否定する。

 存在はすべて《肯定』である。即ちこの光景は否定であり、非存在に他ならない。人間を超えるものとして《神》という位置づけがあるが、神の領域である。
 神秘的でなく、神秘の畏怖すべき恐怖の光景である。この光景を認めることは世界の条理への反撃であり、人間がこの領域に近づき、検証することなど不可能に違いない。
《もしも》の提言は、見る者の自信を全て打ち砕く。抗うべき術が見つからないからである。

 この画の状況を脳裏に描く者(鑑賞者)は、これら条件のもつ恐怖を想像できる。つまり、質的条件を知覚し得るからであり、それらデータを学習しているからである。知っているという情報の集積、人間の叡智が恐怖心をあおるのである。
『ガラスの鍵』とは《神の領域》に対する《人間の叡智》の限界ではないか。ガラスに例えるしかない人間の無力である。


 写真は『マグリット』展・図録より 


『城』3591。

2021-02-12 06:29:56 | カフカ覚書

きみの意見によると、ぼくはまるでなにも知らない人間だそうだが、そのぼくでさえわかるくらいだから、きみが不適だということは、火を見るよりも明白なことにちがいない。


☆しかし、きみが騙されたと嘆く限りは、わたしには説明できない。たえず騙されたことを言うのは追従し、動かされた(洗脳された)からである。それにしてもこの場所は全くきみに適していない。