続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

『飯島晴子』(私的解釈)厚葬の。

2021-03-12 07:12:10 | 飯島晴子

   厚葬の足ふかく垂れ茄子を煮る

 足ふかく垂れ(足深垂)はソク・シン・スイと読んで、側、深、垂。
 茄子を煮るはカ・シ・シャと読んで、嘉、施、謝。
☆厚葬(手厚く葬ること)の側(傍ら)で、深く(頭を)垂れ、嘉(素晴らしい)施(恵みを与えてくださったこと)に謝(お礼を申し上げた)。

 厚葬はコウ・ソウと読んで、講、総。
 足ふかく垂れ(足深垂)はソク・シン・スイと読んで、則、深、推。
 茄子を煮るはカ・シ・シャと読んで、加、思、炙。
☆講(話)の総ての則(きまり)は、深く推しはかることである。
 加えた思いを炙(あぶりだす)。

 厚葬はコウ・ソウと読んで、垢、掃。
 足ふかく垂れ(足深垂)はソク・シン・スイと読んで、足、侵、衰。
 茄子を煮るはカ・シ・シャと読んで、下、肢、洒。
☆垢(よごれ)を掃(きれいにする)。
 足を浸(水に浸し)衰(おとろえた)下肢を洒(あらう)。


えっ、ひとりなの?

2021-03-12 06:51:06 | 日常

 どのくらい前だったか忘れたけど、学芸員(神奈川県立近代美術館)が「美術に関するブログを書いている人」を集めて会場をレクチャーしながら回るというイベントがあった。
(わたしレベルでよかったら)と、恐る恐る参加の意を伝えた当日、受付に行くと、即「ハマダセツコさんですね」と言う。「一番最後でしたか」と答えると、「いいえ」と・・・。
 時間になるまで待っていると、やおらA先生が現れ「やぁ、昨夕はラジオでも呼びかけたんですけどねぇ」といい、参加者は、わたし一人だったことが判明。
 恥ずかしいやら可笑しいやらで楽しい時を過ごさせていただいた記憶。

 それにしても美術ブログなんて言うものは関心が薄くてブログに書く人なんか稀れだということが分かった。美術は書くものじゃなくて描くもの、造るもの、見るものに違いない。
 希少(きわめてゼロに近い)のわたし、穴があったら入りたい心境でした。


R.M『ゴルゴンダ』③

2021-03-12 06:21:05 | 美術ノート

 なんという空の明るさ、透明さだろう。濁りなく晴れ渡った空、無風である。
 人々の点在に窮屈さはなく、一人ひとり全く均一(平等)に間隔を所有している。この心地よさに抗う術もなく安穏として立っている充足感。

 浮いている?つまり、重力がない。重圧のない世界観、物理的な束縛を受けない精神界、解放であり、同一人物に見える人物は《みんな同じ人間である》と言っており、差別なき世界を暗黙のうちに主張している。まるで空気のような抵抗のなさ。

 この解放感、前後左右、争いもなく、貧富の差もなく、人種差別もない。
 まさしく、雲一点もない晴天である。人間界に神はおらず、神は人間であり、等しく自由に解放されている。建屋はずっと長く彼らの安全を保障する。

 光はあまねく彼ら全体に等しく当たっている。人は建屋に守られてもいるが、建屋にしかとある律(約束)から解放されている。冷静沈着、逃げることも追うこともなく光の中に存在している。
 光の中の自由な存在であることの願い、こうあるべき世界の未来予想図である。


 写真は『マグリット』展・図録より



『城』3610。

2021-03-12 06:09:28 | カフカ覚書

どうやらぼくたちふたりは、あまりにも気ばりすぎ、あまりにも騒々しく、あまりにも子供じみて未経験で、たとえばフリーダの冷静さ、フリーダの要領のよさをもってすれば造作なく、目だたずに手に入れられたものを、泣きわめいたり、引っかいたり、引きちぎったりして手に入れようとしているみたいだね。


☆わたしたち二人は、あまりにも子供っぽく騒いで煩って死んでいく。たとえば、フリーダの静けさ、フリーダの適切さからすれば、さりげなくいかれたものを、泣いたりかきむしったり、ボロボロになっていた。