続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

『飯島晴子』(私的解釈)つぎは甥の。

2021-03-19 06:56:22 | 飯島晴子

   つぎは甥の声秋雨の生姜叢

 生姜の収穫、当然、下を向いての作業。しかも雨降りであれば誰の声なのか図りかねる状況。ゆえに次の声(掛け声)は甥だろうという刻一刻、忙しない収穫時の現場である。

 つぎは甥の声(次甥声)はシ・セイと読んで、視、星、聖。
 秋雨はシュウ・ウと読んで、周、右。
 生姜叢はショウ・キョウ・ソウと読んで、消、共、総。
☆視(よく見ると)、星は聖(けがれなく厳か)である。
 周(ぐるりとまわり)右に消えていく、共に総て。

 つぎは甥の声(次甥声)はジ・セイ・ショウと読んで、自、成、証。
 秋雨はシュウ・ウと読んで、周、有。
 生姜叢はショウ・キョウ・ソウと読んで、詳、況、層。
☆自(おのずから)成(出来上がる)証(裏付け)がある。
 周(あまねく)有るものを詳(つまびらかにして)況(ありさま)を層(幾重にも重ねる)。

 つぎは甥の声(次甥声)はジ・セイ・ショウと読んで、辞、世、省。
 秋雨はシュウ・ウと読んで、終、有。
 生姜叢はジョウ・コウ・ソウと読んで、定、考、相。
☆辞世(死に臨んで作る和歌・俳句)を省(顧みると)、終(死)の有(存在)の定めを考える相(ありさま)がある。


R.M『神々の怒り』②

2021-03-19 06:23:59 | 美術ノート

 この絵の中のどこに神々がいるのか、神々は見えない存在であれば、この絵に神々の不満があるというわけである。
《わたし達は自由である》という前提で生きているから、何を見ても甘受する傾向にあり、悪あるいは負の領域でない限り、むしろ受け入れることに抵抗を感じない。従順、素直である。

 道路を走る車に運転手と紳士の姿が見え、そしてその上を疾走する騎手の姿がある。、確かにおかしい、車の上を馬が飛び越えないだろうという緩い感想を抱かなくもない。(でも、これは絵(空想)だから、現実ではないのだから)と、許容する。

「だから?」だから何だろう。
 神々に発言の自由はないから、いつも黙認である。人間の思うがままである。
 神々というのは《自然・在るがまま》であり《根源・主》である。その神々の怒りに、気づいていないという指摘がこの絵にある。

 神々は人間の作った空を飛翔するといった不条理な空想に嫌悪している。伝説・神話・宗教・・・原初の神々《自然》は、人間界の創った人心を動かす力を持つ空想に異を唱え、怒りを持ってさえいる。そのことを暗に提示している、あまりにも秘かな謀に鑑賞者は首を傾げ素通りしてしまうのではないか。
 空想がまかり通る世の中に『神々の怒り』は静かに沸騰しているというマグリットの遥かな見地である。


 写真は『マグリット』展・図録より


『城』3615。

2021-03-19 06:04:54 | カフカ覚書

わたしの仲間たちは、あなたのお気に入るにちがいありません。ほんとうに女たちだけではむずかしい仕事があれば、助けてくださいな。そうすれば、わたしたちは、自分たちだけを頼りにしなくても済みますし、夜中も不安に苦しめられることもなくなるでしょう。


☆全くの作り話は、現場、現場不在証明を助けることになるでしょう。どうして作り話がわたしたちの頼りになるのでしょうか。死は大変な恐怖に耐えるものなのです。