続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

『飯島晴子』(私的解釈)たのまれて。

2021-11-25 07:37:34 | 飯島晴子

   たのまれて鷺山の日をさげすみぬ

 たのまれて鷺山の(頼鷺山)はライ・ロ・センと読んで、雷、路、閃。
 日をさげすみぬ(日蔑)はカ・ベツと読んで、火、別。
☆雷の路(みちすじ)は閃(きらりと光る)。
 火とは別(違うもの)である。

 たのまれて鷺山の(頼鷺山)はライ・ロ・サンと読んで、磊、漏、惨。
 日をさげすみぬ(日蔑)はジツ・ベツと読んで、実、別。
☆磊(小さなことにはこだわらない)が漏(秘密が世間に知られること)は惨(みじめで傷ましい)。
(知られないように)実(内容)を別にしている。

 たのまれて鷺山(頼鷺山)はライ・ロ・センと読んで、頼、蕗、選。
 日をさげすみぬ(日蔑)はジツ・ベツと読んで、実、別。
☆頼んだ蕗を選ぶ。
 実(内容のあるもの)を別(分けて区分する)。


M『ことばの用法』

2021-11-25 07:14:16 | 美術ノート

   『ことばの用法』

 煉瓦の壁と濃い暗色グリーンの壁が半分に仕切られて繋がっている背景である。
 主体は薄グレーの平面、不明確な形(人を連想させる)の中に、canon corps de femme arbre の文字がそれぞれ任意の位置に書かれている。大砲、女の身体、木。

 即、意味を思い浮かべる。しかし、意味は無意味にただそこに書かれているだけであることを知る。関連、誘いだすイメージはない。

『ことばの用法』言葉は伝達・媒介である。目的があり、伝える力がある。しかし、置き去りにされ、投げ出された言葉の無力もまた真実であり、人智の及ぶ範囲にはない。
 共通言語をもたない他者にとっては単なる記号、羅列にすぎず、その役目からは遠い。言葉は約束であるが、排他的でもある。言葉への全面的な心服は一部に留まらざるを得ない。言葉の用法は開いているが、閉じられたものでもある。

 写真は『マグリット』展・図録より


『水仙月の四日』54。

2021-11-25 06:28:52 | 宮沢賢治

「それはね、電気菓子とおなじだよ。そら、ぐるぐるまはつてゐるだらう。ザラメがみんな、ふわふわのお菓子になるねえ、だから火がよく燃えればいゝんだよ。
「ああ。」
「ぢや、さよなら。」
「さよなら。」
三人の雪童子は、九疋の雪狼をつれて、西の方へ帰つて行きました。

 菓子とおなじ・・・仮死。
 火がよく燃える・・・化(教え導く・形、性質を変えて別のものになる)の念。
 カシオペーアの三つとも。とも。・・・仮死をペーア(peer/じっと見る)。三は三(数)なのか、Sun(太陽)か、星は法師とも。

 三人の雪童子は、九疋の雪狼をつれて・・・最初に現れた時は二疋の雪狼、うしろから雪童子(三人とは書いてない)→狼どもも→(三人の雪童子は九疋の雪狼をつれた)になっている。数は複数入り乱れてということか、数に意味を被せているのか。
 雪婆んごが(月)の化身だとすると、三人の雪童子は(太陽)の化身かもしれない。九疋の雪狼は(救済の大神)。
 現世と来世(冥府)の領域(死境)の攻防。等しく死(ひゆう・非有)へ運ぶものと、赤い(シャクと読んで、釈/意味を解き明かす)舌(言葉)を吐く教え導くもの。
 三人の雪童子は『水仙月の四日』に現れるあの世への迎合、三尊(阿弥陀仏・観音菩薩・勢至観音)を暗示しているかもしれない。