続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

『城』2004。

2015-06-27 06:23:51 | カフカ覚書
第十四章 シュバルツァーの恋/バルナバスを訪ねる/アマーリアとの会話

 Kは、もうすでに暗くなり、午後もおそくなってからだったが、とうとう校庭の道の除雪を終り、行きを道の両側に積みあげ、それを打ち固めた。これが、この日の仕事じまいだった。


☆ついにKは全く知られていない後の小舟の中にいた。結びついた方法と、むき出しになった(露呈した)馬鹿話は、双方とも伝説であり、それを不変なものとしたが、ただ現場不在証明とともに集会の準備ができていた。

『冬のスケッチ』149。

2015-06-26 06:31:23 | 宮沢賢治
         ◎
  小さき煉瓦場に人は居ず
  まるめろのみほひたゞよひ
  火あかあかと燃えたり
    (大なる唐箕
     幅広の声にて
     ひとり歌へるは
     こゝにはいともふさはしからず)


☆章(文章)を聯(並べてつなぎ)画く常である。
 図りごとに拠る化(形、性質を変えて別のものになる)の念(考え)であり、題(テーマ)は等(平等)の記である。
 福(幸い)の講(はなし)を誓(神仏にちかう)果(結末)である。

『城』2003。

2015-06-26 06:19:06 | カフカ覚書
フリーダは、あんなことをして助手を追いはらうどころか、むしろおびきよせているのだということが自分でわかっているのだろうか。けれども、Kは、もうふりかえらなかった。そんなことよりも、できるだけいそいで、すぐに帰ってこようとおもったのである。


☆フリーダ(平和)は助手(脳/知覚)を威すどころか、むしろおびき寄せているということを知っているのだろうか。けれどもKはふりかえらなかった。むしろできるだけ急いで戻ってこようと思った。

三浦半島の歴史7。

2015-06-25 07:04:57 | 博物館講座
〔菊池先生の授業〕

《上町から汐入周辺を歩く》
 博物館(深田台)を出て、隣接の文化会館の外観を眺めた。(50年前としては新式とのこと)
 (以前は本町に市民会館があって、子供のころ、美空ひばりのショーを観に行き、満席・立ち見の熱気を覚えている)
 次に上町の看板建築、出桁造り(出桁建築群)などを観察。
 上町教会(国登録有形文化財)の外観を眺めたりして、中央駅へ下り、三笠通りを通過(通り自体が縦に長い建物になっている)この通りもずいぶん変わってしまった。わたしが子供のころ・・・そう60年も経っているのだから当然か。
 現ヨセフ病院(旧海仁会病院)の外観を見学。
「ここは、詩人の立原道造が作図し、設計は石本喜久治の事務所が任にあたったというモダニズム建築です」
 どぶ板通り・・・小学校の頃、学校を挟んで住宅街と繁華街に分かれていて「向こうへは行ってはいけません」て、先生の忠告があった。向こうがどんな世界なのか知る由もなかったけれど、大江健三郎などが小学校の事情を詳しく書いていて、後年ビックリしたことがある。

 国道を渡り、ダイエーの二階の裏手へ回り込んで、基地内を傍観。「全景を見渡すには対岸から見る必要があります」というか、やむをえずの観察。
「フランス村はあの辺り、長官官舎はあそこ、工廠の宿舎は向こう・・・」先生は事細かに指さして説明。


 梅雨の晴れ間、小半日だったけれど、楽しいフィールドワークでした。

 菊池先生、ありがとうございました。
「単品でなく、面的な広がりの中で歴史を位置づけて考えたい」という先生のご主旨、よく伝わりました。

『冬のスケッチ』148。

2015-06-25 06:36:52 | 宮沢賢治
         ◎
  林間に鹿はあざける
    (光はイリヂウムより強し)
  げに蒼黝く深きそらかな
  却って明き園の塀


☆倫(すじみち)が現れる化(形、性質を変えて別のものになる)講(はなし)である。
 教(神仏のおしえ)を挿(さしはさみ)真(まこと)を脚(支え)とする。
 冥(死後の世界)を掩(隠して)並べている。

『城』2002。

2015-06-25 06:26:24 | カフカ覚書
そこで、フリーダは、あわてて外側の窓をしめたが、あいかわらず窓べに立ちつくしたまま、片手を窓の把手にかけ、頭を横にかしげ、眼を大きく見ひらき、こわばった微笑をうかべていた。


☆フリーダ(平和)は、急いで食(死の入り口)を閉めたが、円い食(死の入り口)の国(エリア)の背後にとどまり、傍らの中心人物と共に大きな機関と先祖の復讐を凝視していた。

マグリット『即自的イメージ』

2015-06-24 06:40:02 | 美術ノート
 テーブルの上に額装されたブルーチーズの絵が置かれている。
 テーブルだとしたらチーズは巨大であり、チーズを普通サイズに考えるならば、テーブルはむしろ高台つきの皿と考えるのが妥当である。高台がついているということは、神さまなどへの捧げものの形式である。

 チーズはチーズでなく、単にイメージである。視覚においては共通だが、触覚・臭覚・味覚はなく、平面上の疑似物質に過ぎない。しかし、それにガラスカバーをかける滑稽。

 実物は腐食を免れないが、偽物は永遠である(と錯覚している)。見る者は確かにブルーチーズを想起する。ブルーチーズそのもののイメージ、それ以外の何物でもない。時間の眠りを経由した熟成した誰もが知るところのチーズであり、食欲をそそるものである。しかし、決して触れることも食べることも禁止された複写(コピー)のチーズである。


 これはブルーチーズだろうか?という疑惑がないわけでもない。しかし、ここまでガードされたこのブルーチーズに嘘があるはずがない。

 高台つきの皿の上にうやうやしく乗せられ、よく見えるが決して触れることを良しとしないガラスのカバーが掛けられたブルーチーズの複写(コピー)。

 このブルーチーズと鑑賞者を結びつけるものは《信じる》という精神的な意図によるほかない。
 イメージはあくまでイメージでしかないが、わたし達は脳の回路をもってイメージ=本物という確信を抱くように習慣づけられた傾向にある。


 マグリットの投じた一石。
 わたし達がそれと信じているものへの眼差しを揺らし、イメージを過大に奉る滑稽を忠告している。即自的・・・疑いをはさむ余地なく信じることへの警告かもしれない。


(写真は国立新美術館『マグリット展』図録より)

『冬のスケッチ』147。

2015-06-24 06:19:40 | 宮沢賢治
         ◎
  そらのふかみと木のしじま
  はちすゞめ
  群は見がたし

         ◎
  こはドロミット洞窟の
  つめたく硬き床にあらずや
  さるにてもいま
  幾個の環を嵌められしぞも
  巨人の白く光る集脚


☆記には群(同類のものが一か所に集まる)が現れる。
 道(神仏の教え)に屈(くじける)講(はなし)を証(ありのままにのべる)。
 鬼(死者)の禍(不幸・災難)を患(心配する)。
 観(よく見て)拠(よりどころ)の仁(博愛や同情の心)を吐く(言う)。
 荒(でたらめ)は析(分けて)却(しりぞける)。

『城』2001。

2015-06-24 06:09:26 | カフカ覚書
それが防御のしぐさなのか、挨拶なのか、ちっともはっきりしんかったが、助手は、そんな曖昧さぐらいでは近よることをやめようとはしなかった。


☆それが先祖の汚点に対する防御なのか、黙礼なのかははっきりしなかったが、それによって近づくことに躊躇はなかった。