続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

『銀河鉄道の夜』85。

2015-09-21 06:00:01 | 宮沢賢治
「おっかさんが病気なんですから今晩でないと困るんです。」
「ではもう少したってから来てください。」その人はもう行ってしまひさうでした。
「さうですか。でゃありがたう。」ジョバンニは、お辞儀をして台所から出ました。


☆平(平等)の記を混ぜ番(組み合わせている)。
 照(あまねく光が当たる=平等)の記の図りごとの講(はなし)である。
 弐(二つ)を議(はかる)題(テーマ)の諸(もろもろ)を推しはかる。

『城」2090。

2015-09-21 05:54:42 | カフカ覚書
そんなに走りまわることはできないのです。かわいそうに、バルナバスは、勤務のために消耗しきっていますの。これからは、知らせを受けとりに、あなたご自身がお越しいただかなくてはなりません」


☆そんなに多く走りまわることはできません。かわいそうに、バルナバス(北極星=死の入口)は職務のために、衰弱しきっています。これからは小舟の処刑を受けるために、あなた自身が行かねばなりません。

若林奮『Ⅱ-1-8』『Ⅱ-1-9』

2015-09-20 06:54:05 | 美術ノート
 『Ⅱ-1-8』(写真左上)
 この物は何だろう。正立方体、塞がれた小さな穴、テープを貼った箇所は修復の跡らしい。
 敷かれた黒い布地は、紐が下に用意されているところを見ると梱包を予想させる。

 球体は、ある意味自然である。しかし自然の中に、Cube状態の物はない。(岩石にあることはあるが、合体状態であって正立方体としては孤立していない)
 つまりは、人間の英知(作意)である。人の仕事(観念)のデータの集積ではないか。それを隠蔽するべく黒い布地と紐が包むに足りない不具合を見せて置かれている。

 『Ⅱ-1-9』(写真右上)においても同じことが言える。しかしこちらは正立方体の素材が異なって居り、無傷に見える。

 この相違は、時代の変移かもしれない。『Ⅱ-1-9』の方が時代を遡るのではないか。
 人類が、試行錯誤して、むしろ傷つき、疲弊しているような風情がある。存在の痛み…隠蔽使用の黒い布らしき物や結びつける(拘束)の紐は、羞恥かもしれない。

 時代の雰囲気を例えるならば・・・時代の空気は、ひどく無味乾燥であるという提示を感じる。
 肌に感じる触覚、感想を物質に変換。空気と物質を相似形に解釈するというのは奇想天外、突飛である。
 しかし、作家の中で質的変換を計算したならば、こうなるという。鑑賞者は観察することを止めて、肯くしかない。


(写真は神奈川県立近代美術館/葉山『若林奮 飛葉と振動』展・図録より)

不安の振動尺。

2015-09-20 06:32:55 | 日常
 一昨日購入してきた刺身がチルド室にあるのに、今日も同じ刺身を買って来てしまった。しかも昨日も一昨日もその刺身を食べずに、冷凍室と魚を常温に戻して焼き魚にして食卓に出している。

 ほとんど訳の分からないことをしている自分に衝撃を受けている。

 (これは太るから)と、手を出さないピーナッツ、(でもたまには)と、買ってきたら、野菜室に手触りの同じものが・・・Ah。


 (まずいな、まずいな、わたしの頭から記憶が消えていく)

 
 サークルで話すと、「よくあることよ」とみんな慰めてくれる。
 友人たちは「実は、わたしもね・・」と、侃侃諤諤。


 でも色々なこと、まったく思い出せない事が多すぎる。生活に支障が出るほどでないにせよ、一歩手前の痴呆状態。


 色々捨てて、シンプルにしたいのに、つまらない物を買い込んでくる。安物、ガラクタ、今すぐ棄てたいようなものが積み重なっている棚は、すでに次の物を押し込む余地がない。


 どうすればいいんだろう・・・。部屋の中のゴミは増えていくのに、頭の中はどんどん減っていく。

 少しでも記憶が定かなうちに、整理整頓を心がけなければ。
 目はかすみ、足はよろよろ、自分自身の物理的な状態にも綻びがあちこちに出ている。

 どうすればいいんだろう・・・一番の懸案は自身の劣化かもしれない。

『銀河鉄道の夜』84。

2015-09-20 04:49:07 | 宮沢賢治
「いま誰もゐないでわかりません。あしたにして下さい。」 
 その人は、赤い眼の下のとこを擦りながら、ジョバンニを見おろして云ひました。


☆推しはかり図りごとの釈(意味を明らかにする)
 現れる禍(不幸、災難)を察(明らかにし)験(調べる)運(めぐりあわせ)である。

『城』2089。

2015-09-20 04:43:41 | カフカ覚書
その口実を使いやすいようにしてあげるために言っておきますけど、場ルンバすは白、からあなたのために伝言をもって帰ってきた場合でも、それをお知らせするためにわざわざまた学校まで出かけるわけにはいきません。


☆わたしはその遺体(死体)を軽くするためにも言っておきますが、バルナバス(北極星=死の入口)からあなたのために知らせを持って帰った場合でも罪過を報告するわけにはいきません。

若林奮『大気中の緑色に属するもの』

2015-09-19 07:06:24 | 美術ノート
 なぜ緑色なのか。
 緑ー植物ー光合成ー酸素ー生命の源・・・。

 なぜ大気中と括ったのか。
 大気(air)は物体の狭間で視野に入るが、視野に認識されることはない。あるとすれば、風など何らかの圧力による移動により垣間見ることがあるかもしれない。

 若林奮の作品に出合ってから、対象物との位置関係の変動、あるいは空気の流動性について考えさせられているが、作家の深い洞察力の眼差しに改めて驚かされている。

 見えないものの質的変換は見えるものを紛失させる。元の形を否定してしまうので、今までの観念的なデーターの集積を取り払わないと見えてこない。(ちなみに通常は経験上のデーターの集積によって対象が見えてくるものである)


 緑・・・生命の源は、精神の脈打つ振動に証明される。見ること、見えることの普遍と変動(流動)への反応、もしくは感動である。

 
 図形に関して言えば、単純に○は肯定であり、×は否定である。
 さまざまな楕円形は薄いブルー(水色)に侵食されているものが多い。
 黄色や土色は光や地面を暗示し、黒い部分は地下の暗部かもしれない。
 小さな点(○)は穴とも隆起とも考えられる。
 指跡は、圧力、もしくは否定かもしれない。

 これらが『大気中の緑色に属するもの』であるという。空と光があって、他に様々なものが混在しているが、きっちり縦横に区分けされた平面図。むしろ緑色の主張は希薄に見えるが、青と黄を混ぜれば『緑』が現出する。

 大気中の緑の分解図にも見える作品を前に、「どうだ!」と立っている作家の姿が写った写真。彼はこの作品(大気)の中に存在する《わたくし》という動かぬ視点である。


(写真は神奈川県立近代美術館/葉山『若林奮 飛葉と振動』展・図録より)

『銀河鉄道の夜』83。

2015-09-19 06:40:15 | 宮沢賢治
「あの、今日、牛乳が僕んとこへ来なかったので、貰ひにあがったんです。」ジョバンニが一生けん命威勢よく云ひました。


☆恨めしい過(あやまち)を、語(ことば)で遅々(ゆっくり)撲(たたき打つ)。 
 鬼(死者)の省(自己を振り返ってみる)が逸(かくれている)。
 照(あまねく光が当たる=平等)の冥(死者の世界)の精(こころ)を、運(めぐらせている)。

『城』2088。

2015-09-19 06:28:35 | カフカ覚書
でも、あなたのほうは、わたしたちのところへしゅっちゅうお越しくださってかまわないのですよ。たぶんなんの障害もないでしょうからね。だって、いつもバルナバスの使いの用件ということを口実になさればいいんですもの。


☆しばしば来ることも出来ます。多分、小舟が障害ですが、バルナバス(北極星=死の入口)の知らせを口実にすればいいのですから。

若林奮『Ⅱ-1-2 大気中の緑色に属するもの』

2015-09-18 06:53:08 | 美術ノート
 大気中(air)、水平方向の視線、つまり大気圏などという高さでなく、生活者の視野における大気中ということで、垂直には地面に留まりその下は想像してみるしかないという範囲の空間凝視である。
 もちろん大気は無色透明であり触覚をもって触ることは不可である。しかし、自身を固定した位置から空気の流れを観察し、記録めく質的変換を図るという構想に基ずく作品群であるに違いない。
 観察者としての存在意識、存在の原初に立ち返る風景が、即ち『大気中の緑色に属するもの』なのだと思う。

 確かに現在ある物を除けると、見えるのは緑なす地球の大地、山々、川や道のほかは何もない。
 緑に属するというのは何を指しているのだろう。
 大気中の光の三原色は、赤・青・緑である。この大まかな分類に寄れば、山や樹木や草木の植物群に川や海の青緑も含まれ、緑の黒髪ともいうべき暗色も属の中に含まれてくるかもしれない。
 ♪緑のそよ風~♪と歌われる風も緑に属すのではないか。

 相対的に考えると、緑とは『自然』だと換言できる。
 悠久の昔から現在に至るまでの自然の在り方、接し方、対話が作品のテーマかもしれない。

 
 立方体の集合、長い角柱に見える変遷、計測された斜面、円筒形の物体、長方形の平板ではあるけれど膨らみを持った物の連鎖etc…それらが時に形を変化させて並べられている方形の中の景色は無機的であり、緑と題さなければ、有機的な影は微塵も感じられない。

 しかし、敢えて『緑色に属するもの』と宣言している。ゆえに敢えて感じ得る感想を述べるならば、ここには『時間』と『人間の連鎖』と生命の要である『水管』と『山や集落の風景』を相対的に模した景色だということが出来る。
 緑を理想化するでもなく、ただ在るように地上の生活圏の空気をスケッチした風景である。

 1st,2st,3stとあるのは、時代を遡って古代へ続いていくプロセスのように見える。

 作品は鉄の使用によるものだろうか、時間を経て酸化され錆びて崩れていく。やがては土に還るかもしれないという想定。

 時間(歴史)に於ける人間の連鎖に、不可欠な緑(光合成による酸素)の存在。生命の誕生と共に密接な関係を保持している緑(植物群)。
 水と空気(酸素)と硅酸塩・・・人間を含む動物と植物と岩石の関係。若林奮の作品群は存在の原初の風を体得すべく苦慮した軌跡のような気がする。


(写真は神奈川県立近代美術館/葉山『若林奮 飛葉と振動』展・図録より)