途中から見たので前後は不明だけれど、某番組でお坊様が話していた言葉に胸を打たれた。
『我慢』は、自己の慢心だという。
我慢は善行、決して怒らず耐え忍ぶという解釈で今までの人生を納得してきたわたし。
我慢は、自分の慢心であるという言葉に深く感動。自分のなかの驕りであり、横柄な気持ちが我慢を強いていたとすれば、わたしは大きな勘違いをしていたことになる。
我慢する、我慢は己の慢心から来ていることを知った今、過去の多くのことへの不満が一気に収拾、煩悩大き性ではあるけれど、これからはできる限りこの解釈を忘れないように努めたい。
『ローズ・セラヴィよ、何故くしゃみをしない?』
キャサリン・ドライヤーが妹のために何か作品を、という依頼を受けての作品である。自由にやらせてくれるなら、という条件付きにせよ、プレゼントであるこの作品の真意はどこにあるのだろう。
一見すると、価値基準を外したものであり、見かけを裏切る異質・重量感に困惑し、失望してしまう。喜べないのである。
換金の値打ちは期待できず、美しくもないので装飾にも値しない。
プレゼントというシステムには、何らかの《伝達すべき意思》が潜んでいると考えられるが、この物にそれを見出すのは難しい。
この無謀なプレゼント、兄が妹に送るという物であり、それを第三者が引き受けている。しかし、この作品から受ける印象は《すべてに関連性がない=関係性の否定》であり《見かけに於ける実体の裏切り》である。
同胞、最も親いものである兄妹の関係を断ち切るような意図、《人として、個人として生きよ》というメッセージも受け取れる。この意図を知ってか知らずか、気に入らなかった妹が兄に返却し、兄もまた他に譲ったのは正しい選択だったかもしれないし、デュシャンもまたこの展開に納得したかもしれない。
(写真は『DUCHAMP』TASCHENより)
けれどもそれは方角がちいがつてゐたらしく雪童子はずうつと南の方の黒い松山にぶつつかりました。
☆法(神仏の教え)を書く。
説(はなし)は同(平等)の旨(思い)を納めて法(神仏の教え)を告げている。
照(あまねく光が当たる=平等)は、太陽である。
だって、報告は、まだとどいていないということです。してみると、どのお役所も、まだこの事件をとりあげていないわけです。したがって、赦すことは、使者の自由であり、彼個人でできることであって、それ以上のことは、問題にならないはずです。
☆小舟の告知が届くのです。要するに使命としての小舟事件なのです。それゆえ小舟の自由は彼自身の問題であり、それ以上のことは論じようがありません。
『ローズセラヴィよ、何故くしゃみをしない?』
普通に考えると何の注意も喚起しないようなガラクタ(無用の長物)である。ただこれを意思を持って提示した所に鑑賞者への含み笑いを感じる。「これが分かるか」という挑戦である。
鳥かごと称せられる小さすぎるカゴ、一時的に小鳥を保管・保護するものだろうか。11.4×22×16㎝の空間内では飛ぶこともできず、この鳥かごに入れられた小鳥は脱出を希求するに違いない。しかし、小鳥の存在はなく、角砂糖型の大理石が152個が無造作に入れられている。角砂糖に模した大理石は、角砂糖のイメージを裏切る重さがあり、見かけの重量感とは大きな差異があるに違いない。イメージと実質の相違・落差は少なからず衝撃である。
全体に落差がある、小さい鳥かごへの失意、不必要な集積である角砂糖型の(小さくカットされた)大理石、暴力的な混入であるイカの甲の無意味、自ら熱を発しない無機物の温度を図るかの温度計…鑑賞者は言葉を失い傍観するのみである。
この容器が〈鳥かご〉であることを辛うじて思いだす時の、小鳥の不在(本来のものを追い出して、仮に居場所としている)。
物への敬意や有効性が皆無である。凝視するほどに、反発心が高まってくる。肯定は探したくとも無く、「違うでしょう!」という抗議・否定がわだかまってくる。
この無意味な混在、即ち、わたしの中のローズ・セラヴィ。
(写真は『DUCHAMP』TASCHENより)
しばらくたちどまつて考へてゐましたがいきなり烈しく鞭をふつてそつちへ走つたのです。
☆講(はなし)は烈(バラバラに離れている)。
弁(区別する)双(ふたつ)がある。
そこで、わたしは、自分に言いきかせましたー一般に世論が見かけだけにせよ使者の侮辱事件しか問題にしないんだったら、その使者をなだめることさえできれば、これまた見かけだけかもしれませんが、すべてのことをもとどおりにすることができるかもしれない、とね。
☆わたしは、自分に言いきかせましたー一般に意見が見せかけだけにせよ、小舟への侮辱だけなら、これもまた見せかけに過ぎないかもしれませんが、すべてのことは小舟と和解できるなら償えるかもしれません。
紙芝居文化推進協議会の杉山恵子先生のお話。
いよいよお出かけ実演の話し合い、そのためのレクチャー。
子供(幼児)を飽きさせない工夫・プログラムを組んで30分以内に収めるプランを練ること。
紙芝居の実演をする場合、間にわらべ歌や手遊びなどを入れてつなぐことで、観客との一体感を図る。
観客(子供・幼児)との対等の関係、上からでなくおもねらずの関係、同じ息づかいで、子供たちの反応に順応する。
難しいな!メンバーは幼児教育に携わった経験のある方たちが多いらしい。全くのド素人のわたし・・・できるかな?
「ちなみにこれからみなさんがなさる活動はボランティアですから、全て手弁当、交通費も自前です」
もちろん承知していますとも・・・少しでもお役に立てれば、いえ、自分のために頑張りたいのです。
講師:カタP(片岡直子先生)スタッフ(おスギちゃん・ほしー・ニシニシ・なっちん・まもりん)担当ルー(大柴さん)
みなさん、こちらが恐縮するほど懇切丁寧、親切なご指導を受けている。
ありがとうございました。
『ローズ・セラヴィよ、何故くしゃみをしない?』
不思議な作品である、美的鑑賞をもって制作したとは考えにくい。視覚に訴えてはいるが、造形の妙はむしろ排除し、いかにも偶然であるかの様子を呈している。
鳥かごと言っているが、11.4×22×16㎝はいかにも小さい。
角砂糖型にカットされた大理石が152個も入っているらしいが、同型の規格は教育された観念・常識・従順を想起させる。無作為にカゴに収められているが形態を見失うこともなく、ほぼ整列せざるを得ない立方体の集合である。
鳥かご・大理石・イカの甲・温度計に関連のサイクルを見いだせない。イカの甲や温度計はカゴに納まりきれずに飛び出しており、要するにカゴは開かれている。開かれてはいるが、出ていく機能のない無機物質の集合である。
この小さなカゴの中に収容(拘束)されたこれらは《失笑物》である。違和感・不条理・役立たず…負の景色を提示している。
窮屈にひしめき合う角砂糖型大理石の滑稽、出口を塞ぐ(大理石に比して)大きなイカの甲は威圧的だが、どちらの硬さが優位を占めるかは判然としている。
固い大理石に対し温度計のガラスに予想される破損…小さなカゴ(世界)の中の強弱の混在である。社会に酷似した小さな構造、脱出は可能だが出るべき術を持たない。
『ローズ・セラヴィよ、何故くしゃみをしない』、わたし(デュシャン)の中のローズ・セラヴィよ、何故この状況に生理的反応を惹き起こさない?
状況は淋しく閉ざされている。さぁ、この陳腐なカゴの中をどう見る?
自身を問うデュシャンの眼差しがある。
(写真は『DUCHAMP』TASCHENより)
雪童子の瞳はちよつとをかしく燃えました。
雪童子はセツ・ドウ・シと読んで、説、導、詞。
瞳はトウと読んで、等。
燃えましたはネンと読んで、念。
☆説(はなし)が導く詞(ことば)は等(平等)の念(おもい)である。