見ることの不確実性。
『透視』、見ることは知ることであり、それは情報・知識として脳に刻まれていく。生々流転、生老病死・・・生きるもののサイクルを経験していく。
一人の人間の中に積み重ねられていく情報量は《観念化》し、固定した見地に確信を持つようになる。
卵を見れば、雛から成鳥になることを知っているが、卵を見て成鳥を描くことはしない。卵は卵の姿のまま写し取ることがスケッチの目的だからである。しかし、必ずや時間経過の後には成鳥になることは予測可能である。
この場合の透視は時間を超越することにあり、質的な透視(卵の中身である黄身と白身)ではない。時空を透視している、それも何気ない風に図っている。
画家(男)の眼差しに誘導される卵、それはいずれ成鳥になるという三角の見えない線条によって否定しながら肯定してしまうのである。
頑丈な画脚、画布を抑えるかの手により、画布の安定を信じてしまうがすでに傾いているし、卵を載せた台も傾いている。この一瞬より先は全体が崩壊する、そのように構成されている。
『透視』の妙。見えているものは見えていないものを孕み、隠している。物理的にも精神的にもそれは作用する。
写真は『マグリット』展・図録より