続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

R.M『透視』②

2020-09-28 06:33:21 | 美術ノート

 見ることの不確実性。
『透視』、見ることは知ることであり、それは情報・知識として脳に刻まれていく。生々流転、生老病死・・・生きるもののサイクルを経験していく。
 一人の人間の中に積み重ねられていく情報量は《観念化》し、固定した見地に確信を持つようになる。

 卵を見れば、雛から成鳥になることを知っているが、卵を見て成鳥を描くことはしない。卵は卵の姿のまま写し取ることがスケッチの目的だからである。しかし、必ずや時間経過の後には成鳥になることは予測可能である。
 この場合の透視は時間を超越することにあり、質的な透視(卵の中身である黄身と白身)ではない。時空を透視している、それも何気ない風に図っている。
 画家(男)の眼差しに誘導される卵、それはいずれ成鳥になるという三角の見えない線条によって否定しながら肯定してしまうのである。
 頑丈な画脚、画布を抑えるかの手により、画布の安定を信じてしまうがすでに傾いているし、卵を載せた台も傾いている。この一瞬より先は全体が崩壊する、そのように構成されている。

『透視』の妙。見えているものは見えていないものを孕み、隠している。物理的にも精神的にもそれは作用する。


 写真は『マグリット』展・図録より


『注文の多い料理店』42.

2020-09-28 06:21:52 | 宮沢賢治

 二人は壺のクリームを、顔に塗って手に塗ってそれから靴下をぬいで足に塗りました。それでもまだ残つてゐましたから、それは二人ともめいめいこつそり顔へ塗るふりをしながら喰べました。


☆字を認(見分け)個(一つ一つ)に含まれる図りごとの化(形、性質を変えて他のものになる)で解(分かる)。
 即ち、図りごとの竄(文字・文章を入れ替えること)である。
 字を認(見分ける)眼(要点、かなめ)は、図りごとの自記にある。


『城』3504。

2020-09-28 06:14:19 | カフカ覚書

わたしは、そのことを考えると、いますべてが水の泡となり、素手でもとの仲間のところへ帰っていくのが、こころ苦しくてなりません。なんという不幸でしょう。


☆ペーピは、そのことを考えるとすべてが無益になり、空の手で再び友達のところへ行くことがますます心苦しくなったのです。


ホッパー『自動販売機』

2020-09-27 06:48:17 | 美術ノート

   『自動販売機』

 窓外は暗闇、天井の灯りが反射する大きなガラス面は店内の広さを指定する。おそらく客はこの女性一人なのではないか。傍らの暖房器具、目深な帽子・コート・手袋、冬である。
 寒さの夜更け、彼女はコーヒーカップを手にしている。飲むというよりはそのまま動きを止めているように見える。

 何か考えているのだろうか、ぼんやりと・・・。素足に見える足が生々しく、防寒の着衣にしては胸がはだけている。
 背後の脚付きガラス容器に盛られた真っ赤な果物は彼女の心理に反応する。全体、暗く打ち沈んだ気配の中の山に盛られた赤い果物は彼女の心理を象徴している。

 素足、胸の素肌、赤い果物・・・寒さの中の劣情、情熱を抑えているのかもしれない。秘かな思いは彼女の中を巡る。
 淑女である、決して知られてはならない秘かな思い。彼女自身ですら気づかない感情かも知れない。
『自動販売機』、この画は《彼女の無意識》を描いているのではないだろうか。

 写真は『HOPPER』(岩波 世界の巨匠より)


『飯島晴子』(私的解釈)ベトナム動乱。

2020-09-27 06:16:12 | 飯島晴子

   ベトナム動乱キャベツ着々捲く

 ベトナム動乱、アメリカの放った枯葉剤。こちらではキャベツが結球しつつある。死と生、地球上の景である。

 動乱はドウ・ランと読んで、道、乱。
 着々捲くはジャク・チャク・カンと読んで、寂、嫡、鑑。
☆道(道徳)が乱れるのは寂しい。
 嫡(正妻)を鑑(照らし合わせ考えることである)。

 動乱はドウ・ランと読んで、動、覧。
 着々捲くはチャク・ジャク・カンと読んで、著、若、換。
☆動(感じるもの)を覧(よく見ると)著(明らかになる)。
 若(ニヤク→二訳)を換(入れ替えること)である。


『飯島晴子』(私的解釈)あの人も。

2020-09-26 06:35:51 | 飯島晴子

   あの人もこの人も死ぬ鈴蘭摘

 不動の真理、生あるものは必ず死ぬ。鈴蘭は毒草、最悪死に至らしめる有毒な植物である。あの人もこの人も死ぬ・・・だから、このわたくしでさえも。(鈴蘭摘)は覚悟である。

 あの人もこの人も死ぬ(人此人死)はジン・シ・ニン・シと読んで、腎、詞、認、試。
 鈴蘭摘はシ・リン・ラン・テキと読んで、倫、覧、擢。
☆腎(かなめ)の詞(言葉)を認(見分ける)試みがある。
 倫(すじみち)を覧(よく見て)擢(多くのものから抜き出す)。

 あの人もこの人も死ぬ(人此人死)はニン・シ・ジン・シと読んで、任、詞、尽、詞。
 鈴蘭摘はリン・ラン・テキと読んで、臨、覧、適。
☆任(ゆだねる)詞(言葉)は、尽(すべて)の詞(言葉)に臨(のぞみ)、覧(よく見て)適(当てはめること)である。


ハマスホイ『陽光に舞う塵埃、ストランゲーゼ30番地』

2020-09-25 17:12:32 | 美術ノート

  『陽光に舞う塵埃、ストランゲーゼ30番地』

 古い建屋の室内を真正面から描いている。美しいというより神聖な空気感が漂う窓。刻まれた時間は荘重な雰囲気を醸し出している。

 窓からの光の差込み、床面に落ちた光は部屋の静謐さを物語り、気配のざわめきを残して沈黙している。語るべき言葉はないのに震撼と胸打つ空気感がある。
 光は東から西へ、床面は逆に光を捉えて回転する。長い時間の経過は春夏秋冬、日々の差異こそあれまったく同じリズムで年毎に繰り返し刻まれてきた恒なる光の影である。

 光が空間(室内)を這う、その息遣いはこの家の歴史を空無に帰している。確かに人がいて、確かに幾多の物語が刻まれた部屋、今は静かな佇まいのみが画家を迎え、対峙している。なぜならこの景は、どうしても深夜の月影のような気がしてならない。昼間なら窓外も室内も明るいのではないか。
 満月の光度を彷彿とさせているこの景は、日本でいう中秋の名月を隠している。この平面的な絵は天空の月をも視野に入れた大きな絵であり、時の刻みをも見せている。(月が天頂にあれば影は入らない)斜めに入る光の先を延長した先に月は静かに輝いているはずである。

 眠りの中の月影、ひっそりとした室内は静かに語らうのである。

 写真は日経『デンマーク 室内の豊かさ』(下)より


『飯島晴子』(私的解釈)足もとの。

2020-09-25 07:26:05 | 飯島晴子

   足もとの劣情の白すみれかな

 足もとの劣情、隠しておきたい弱み(恥ずかしい)劣情がある。でも、同時に白すみれ(謙虚・誠実・無邪気)の純で可憐な心地の方が勝っている、そうに違いない。

 足もと(足元)はアシ・ゲンと読んで、悪し、言。
 劣情はレツ・ジョウと読んで、列、冗。
 白すみれ(白菫)はハク・キンと読んで、吐く、禁。
☆悪し(悪い)言(言葉)を列(並べ)冗(不必要なこと)を吐くことは禁じられている。

 足もと(足元)はソク・ゲンと読んで、則、厳。
 劣情はレツ・ジョウと読んで、烈、常。
 白すみれ(白菫)はハク・キンと読んで、魄、金。
☆則(決まり)は厳しく烈(精神が正しく強い)である。
 常に魄(たましい)は金(立派)である。


R.M『透視』

2020-09-25 06:55:13 | 美術ノート

   『透視』

 透視、感覚では不可知なものを超能力によって認知することであるという。
 卵を見て成鳥を描く、これをもって『透視』としている。卵が雛として孵り、成長になる、という時間空間が欠落している。

 時空を飛び越える、しかしこれはすでに経験上認知している事実に基づくものでもある。この情報は既知の事実であると確信している、結果このように描いたのだという『透視』。

 透視は非現実的である。しかし、現実的な情報の認知がなければ透視はあり得ない。《こうなるであろう》という予測、想像は経験値からくる。
 見えないものを見ることは不可能である。
 見たことのあるものの時間的経過を予知することは可能である。
『透視』に能力を超える現実はなく、情報の集積により想像する範囲を超える透視はない。

『透視』が現実に存在するとすれば、賭け事の面白みも研究の余地も失われてしまう。見ることはあくまで過去・現在・未来のサイクルの中での仮定にすぎない。
 この画(静止画)が次の瞬間を持つと仮定するならば、卵は卓から落下することは必至であり、画布(キャンバス)もまた画家の方へ倒れ込むはずである。(これを透視というか?)マグリットの皮肉である。


 写真は『マグリット』展・図録より 


『注文の多い料理店』41.

2020-09-25 06:31:39 | 宮沢賢治

 みるとたしかに壺のなかのものは牛乳のクリームでした。
「クリームをぬれといふのはどういふんだ。」
「これはね、外がひじょやうに寒いだらう。室のなかがあんまり暖いとひびがきれるから、その予防なんだ。どうも奥には、よほどえらいひとがきてゐる。こんなとこで、案外ぼくらは、貴族とちかづきになるかも知れないよ。」


☆個(一つ一つ)の語(言葉)は新しい我意である。
 換(入れ替わる)質(内容)の談(話)は予(あらかじめ)謀(計画し)、往(その後)に案(考えた)我意の記が続くという質(内容)である。