思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

腑に落ちる知=「民知」の実践紹介、阿部さん「娘の変化」、綿貫さん「水質の問題」

2005-10-08 | 恋知(哲学)


思想までも情報知になっている「愚かな」現実を少しづつ変えていきたいと思います。 「客観学」と「思想」=主観性を深めることで普遍的な了解を生み出すこと、とはまったく異なります。
皆さんも、有意義で、腑に落ち、「得」をする思考の実践をぜひご一緒に!!

以下は、民知の思考の実際例です。

知のありようと水質の問題 綿貫信一

私は小学生の頃釣りが好きで、毎週のように近所の手賀沼や利根川へ釣りに行っていました。当時は専ら練り餌を使っていたので、餌を作るためにその場所の水を汲んで、自分の手で餌を練る必要があります。

当時の手賀沼の水は非常に汚く、水に手を付ける時にちょっと気持ちが悪かった記憶があります。この感覚は、ニュースなどで報道されていた「水質ワーストワンの手賀沼」といった情報が先入観としてあったことも影響していたのかも知れません。しかし、水を前にして、「手を入れるのイヤだな」と感じることそれ自体は、実際の手賀沼の水から受けるものです。ワーストワンとか水質云々といった話は、その後から、「そういえば手賀沼は日本一汚いんだったな」等と思い出され、自分が感じた感覚をより強めることにしかなりません。

CODやBODの値が○○だから水が汚れているのではありません。私たちが実際に見て、手に触れて、臭いを嗅いで感じたこと-例えば「この沼だったら泳いでみたい」「この川の水には触りたくもない」-といったことは、水質分析結果の数字よりも前にある主観的事実です。

水質分析の手法は、こうした人間が感じる感覚を何とか数値によって表現してみようという試みです。数値化することによって、他の人にも伝達しやすくなります。

水質浄化にしても、ある水質項目を目標値に掲げて、「CODを○○以下にしよう」ということは、目標としては分かりやすくなります。しかし、CODの値が目標値に達したことをもって、目的が達成したと考えること、つまりCOD値そのものを目的にすることはナンセンスです。

泳げるような沼にしたいのか、水辺で触れ合える程度でよいのか、夏場に臭いがしなければよいのか、あるいは多用な生物相を復活させるのか-こうしたことこそが本来の目的であるはずです。CODの値は目標に達したがちょっとこれでは泳ぐ気になれないし魚や鳥も帰ってこない-これでは何のための水質浄化なのか? 全く意味がありません。
まずどのような手賀沼にするのか?という目的を持つことが必要なのですが、この目的=主観(私たちがこうありたいと考える手賀沼の姿)自体は、水質分析の値や化学などと行った科学的な知=客観学からは絶対に導くことは出来ません。客観学はあくまでも目的が決まった後に、それでは具体的にどのように実現していくか、という段階で役に立つものです。

まず何よりも私の主観が感じ・思うことを段々と深め・広げて普遍化していくこと=「主観性の学」が求められるのであり、専門知としての客観学は、それをサポートする「知」に過ぎない、そう考えるべきなのです。現代社会の悲喜劇は、それが逆転しているところにあるのだと思います。タケセンの言う知の変革=民知の実践が急務です。

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娘に変化が現れた 阿部憲一

今日は娘の小学校の個人面談に行ってきました。

その前に最近の娘に現れた変化についてお話しします。

いつも「一人で学校に行きたくないー」と言って泣く娘に私がついて教室までいっていました。ところが、ここ数日は、友達と一緒に学校へ行けるようになったのです。(カミさんが校門まではついて行きましたが。)
本人も「今日は一人で学校に行けたんだよー」と自信のある口ぶりです。

個人面談に話を戻しますと、

先生の話では、「あまり進まなかった給食を今日はみんなより早くおかわりした。」「最近、自分から進んで手を上げる回数がみるみる増えた。」「まわりの子と自分から進んで関係をもつようになった。」ということです。
どうやらいろんなことに自信がついてきたようなんです。

入学当初は「なんで学校に行かなくちゃいけないのー?」と泣いて質問する娘にうまく答えることができませんでした。(今もできないかも)

そのときは、「法律で決まってるんだけど(笑止)それは人間が作ったものだから理由があるんだよね。うーん、どんな理由かっていうと・・・。学校へ行っていろんな友達ができて話をすると楽しいし、計算できると花やさんの仕事もできるようになるし、勉強できるようになると楽しいから、お父さんお母さんは、自分の子供を学校へいかせたり勉強をおしえてあげて下さいってっことなんだと思うよ。」とか、
「『つまんない』ばっかりいっててもつまんないから、楽しいことを学校で見つけておいでよ、作っておいでよ。」とか、
「行かなくてもいいんだけど、そうすると家庭教師をたのんだり、お父さんが仕事を休んで勉強を教えたりするととってもお金がかかるんだよ。そんな沢山お金はないんだ。学校に行くとお父さんがお金がかからずに済むんだよ。」とか、言ってました。

それで納得してくれるとは思わないけど、それしか言えませんでした。

学校に行くのがとっても不安。その気持ちはよく判りました。
だから、娘と私の譲り合えるところで、朝教室まで私が連れて行くことを続けていたのです。

面談に話を戻します。

「彼女は今、いろいろなことが噛み合ってきています。彼女の気持ちに沿って、このままのペースで行きましょう。」と先生。
「気持ちの波もありますから、また私と学校に来るようになっても、そのときはよろしくお願いします。」と私。

娘とのつきあい方はこれしかないな、と確信しました。

彼女の気持ちに沿って私が考え、行動する。このことは私の必然であり、またそれ以外の方法はありえないと思います。そして、それは私の歓びであるのです。
頭ごなしに「つべこべいわず学校は行くもんだ!」などというような、最初に「ちゃんと」学校へ行くという体裁を整えてから、中身を埋めて行くようなやり方は嫌なのです。

ともかく、彼女は目に見えるように変わってきています。
こんなに嬉しいことはありません。

自分の子供は出来る限り自分で見たい。そう思って、前から仕事は地元でやりたいとか、ある程度時間が自由になる仕事がいいとか、考えていました。
他の人からみると「ひま」なお父さんに見えるかもしれませんね。(笑)

そして、このことを大げさに表現すると、

彼女は「実存」を実感している。

と言えるのだと思います。

これを書いているときに、すごくすっきりした気持ちになるブログを見ました。
「生きる」ということの土台になる話です。

タケセンのブログより抜粋

人間が存在していることの理由を問うことはできません。
「私は何のために存在しているのか?」と問うことは、背理なのです。何のために?誰のために?などと言う目的はありません。私は、ただ人間として存在している=実存しているだけです。
 わたしを取り巻く一切の世界を意味づけ、価値づけ、秩序づけ、目的を与えているのは、人間の意識=私です。私の意識こそが出発点であり、究極の動因なのであり、それが何のため?と問うことは、悪しき形而上学(けいじじょうがく)=宗教にしかなりません。
 この世のすべてに意味を与えているのは、私の幻想価値=イデアであり、人間は、自分を肯定できるような理念やロマンを能産し続ける存在=実存なのです。能産(のうさん)し続けることが出来なくなったとき、人間は、人間としては死ぬのです。
 結論を言いましょう。人間は、自分の幻想価値(理念的ロマン的世界)を他者という現実に晒(さら)し、試すことで、己の幻想価値をくりかえし吟味(ぎんみ)し、豊饒化(ほうじょうか)させてゆく存在であり、その営みが<人間の生きる意味>になるのです。
(武田康弘) 



念のため、勘違いしないように言っておくと、<学校へ行く意味>=<人間の生きる意味>ではありません。次元が違う話ですので。

私が言いたいのは、彼女が感じ始めたと思われる「実存」(=自分からの問いが出発点)という「生きる意味を自分で作り上げて行く」ことを続けて行けるように私は彼女を見守りたいということです。

子供はみな、抑圧さえしなければ、自然とそういう生き方をするものだという気もしますけれど・・・。

学校が、自分の意見を人に表明し、受け入れられ、他の人の意見に耳を傾け、議論する・・・。そんな「場」であれば、タケセン風に言えば「エロース豊かな」生き方ができるのでしょう。

親としては、ぜひそうなるようにしたいです。



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