天皇は全国民統合の象徴である、というわが国のイデオロギーについて、議論そのものをさせない空気をつくり、学校もマスコミもそれを当然の「真理」として人々をソフトに誘導=洗脳する社会は、どう考えても「健全」ではありません。
1億2千万人の全ての人間を統合する象徴である、という規定について何も考えずにこれを受け入れるというのは、ひどく不可解です。私は、千代田区神田須田町に生まれ育ちました(学校は越境入学で文京区でした)が、幼いころから皇居前を通るたびに、何か言い知れぬ「違和感」を持ち続けてきました。
主権者であるふつうの人々が政府の行為を縛る「日本国憲法」という最高法規の第一条に、世襲の一人の人間が全ての国民を統合するシンボルである、と書かれていたのでは、人間の自由と平等を理念とする自立した市民による民主制社会など築けるはずがないと思います。その人間の死によって時代名まで変わり、その時代区分を強要されるのでは、まさしく「天皇を中心とした神の国」(森・前首相)になってしまいます。古代国家の時代=時間管理を21世紀になっても続けている社会は、ひどく不健康です。
こういう「神権政治」?を守ろうとするから、戦争責任問題についての思索が封じられ、「昭和天皇のご聖徳を顕彰し後世に伝えるための記念館」(クリック)なる新たな伝説づくりのための施設が建造されるという事態になるのです。
なぜ、新しい市民社会にふさわしい皇族のありようを皆で考え、議論しないのか? まったく不可解です。天皇を様々な任命の儀を中心とする「国事行為」からは解放して、もともとの住居である京都御所で日本の旧家として自由に生活してもらうのがいいのではないか、と私は思いますが、みなさんはどうお考えでしょうか? 「皇族の人権と市民精神の涵養」(クリック)もぜひ見てください。
ともあれ、「天皇制」について議論すること自体がタブー視されるような社会は、どういう視点を持つにせよ明らかに間違っています。間違いを正すのは、民主制社会のふつうの市民の責務のはず、私はそう確信しています。
10月26日 武田康弘