思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

天皇教⇔わが国宗教界のテイタラク→例外は親鸞を始祖とする浄土真宗

2005-10-19 | 社会思想

天皇現人神(あらひとがみ)という狂気の国家宗教に支えられた近代日本の皇軍(天皇の軍隊)によるアジア侵略は、どれほど反省しても、どれほど謝罪しても、許されるようなものではありません。時間的には、少なくとも1世紀(100年)が必要、ということを皆が肝に銘じるべきです。

この認識を深く明晰にすることは、われわれ日本人全員にとって必須の営為であり、「自明の前提」でなければなりません。自民党の一部能天気な政治家や石原都知事などの偏執的イデオロギーの持ち主が幅を利かせているようでは、日本はおしまいです。「天皇教」(その総本山が靖国神社)による戦争政策をすすめたエリート官僚と政治家と軍部の所業を反省し、その思想をおおもとから消去することなしには、戦後は終わりません。これは原理です。

「天皇教」による戦争政策に加担したわが国のほとんど全ての宗教教団は、戦後ずっと自身の罪業を知らぬ顔をしてやりすごしてきました。何の反省もしないで、世界平和などを唱えているその白々しさには言葉もありません。「無責任性」イコール「天皇制」とも言われますが、まさにどの教団もみな天皇制なのでしょう。

「日本キリスト教団」(プロテスタント系)を除けばほとんど唯一の例外が「浄土真宗」です。浄土真宗という日本最大の教団が戦後40年以上たってからではありますが、深い反省の行動をとったのは「救い」です。

浄土真宗・大谷派(東本願寺)は、1987年に、皇軍(天皇の軍隊)に殺されたアジアの人々を含む全戦没者(2000万人を越える)たちのための「追弔法会」を催し、そこで侵略戦争に加担した教団の罪を謝しました。――「戦時中、わが宗門は戦争を〈聖戦〉と呼び、『靖国神社』に祀られたる英霊は、皇運扶翼の大業に奉仕せし方々なれば、菩薩の大業を行じたるものと仰がる」といったのであります。このこと自体が深い無明であり、厚顔無恥でありました。今そのことを憶うとき、身のおきどころがないような慙愧の念におそわれます。わが宗門は聖人(親鸞聖人)の仰せになきことを仰せとして語ったのであります。私たち僧分の者はその罪をおもうとき、ただ皆様の前に沈黙の頭をたれる他ありません、と。 (親鸞についてはクリックして下さい)

兵士としての戦死者を、洗脳教育に支えられた「天皇教」の総本山=「靖国神社」に国体の神(クリック)として祀っておいたのでは、死者の魂は永久に浮かばれません。一人ひとりの人間が何よりも大事にされ、尊ばれる新しい民主制社会にふさわしい「公共墓苑」の創設が急がれます。このことは論を待ちません。直ちに着手すべきなのです。

10月19日 武田康弘




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