武田様
いつもありがとうございます。
Aさんのメールや 綿貫さん と 阿部さんのお書きになったものを読ませて
いただきました。
難しい「哲学論」ではなく、生活に根ざしたよりよく生きるための哲学である
「民知」を実感しました。
「民知」(PCでいきなり変換できるように「恋知」とともに登録しなくちゃ)の集合によってやがては社会をよき方向に動かすことが出来るのですよね。
漠然とした稚拙な質問ですが‥
私は過去に向き合う調査を続けているので、どうしても近現代に関する
歴史認識のあり方が気になってしまいます。日本だけでなく、アジアの国々
も含めてですが、「民知」の立場から「偏狭なナショナリズム」にどう向き合えばいいのでしょう?
金さんがお考えの「日本及びアジアの国々に広めようという活動」に大きな
影響を与えることではないかと思います。
お暇な時にゆっくり教えて下さい。
楊原泰子。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
楊原様。メールありがとうございます。
楊原さんのいう通り、「民知」の集合によって、
日本人の考え方=価値観そのものを動かしていくことが、おおもとから社会=人間を変えることになるわけです。自分の足元が見えない「愚かなインテリ」ばかりでは終わってしまいますから。
「近現代に関する歴史認識のあり方が気になってしまいます。・・『民知』の立場から『偏狭なナショナリズム』にどう向き合えばいいのでしょう?」(楊原)
この問題の核心は、明治半ばで固まった政府の「近代天皇制」=「天皇教」による教育政策(洗脳)にありますので、最大の責任者は、この理念の下に具体の政策を進めたエリート官僚と政治家です。したがって、私は、天皇教(その総本山が靖国神社)の問題をクリアーしない限り「戦後」も終わらない、と思っています。天皇教や東大病という序列宗教と、個々人から立ち昇るエロースを産み出す「民知」(恋知)とは対極にある思想です。
「偏狭なナショナリズム」を越えるために、従来の「左翼」的思想は無力です。「ナショナリズム」に対して「国際主義」を掲げるのは「弱い」思想でしかありません。
「知」のありようそのものを変えることが必要です。それが「民知」です。何かの理論や権威に頼ろうとする脆弱な精神、しばしば「西洋かぶれ」と称されるような舶来礼賛の頭では何事も成しえません。日々の具体的経験から立ち上げる思索が必要です。自分の足元を掘り進めていくと必ず裸の私=実存に出会います。そこからの出発が原理です。
右左のイデオロギーに頼る浮ついた精神や言語・概念主義の虚妄を超えて、五感全体で深く感じ知る能力を開発し、そこから自分の頭でよく思索・吟味することが何より大切、そう考えています。
そうした時、人間は、「・・主義」の危うさやいやらしさを超えて、人間としての深い地点での共同性を獲得するのではないでしょうか。落ち着きがなく、あちこち飛び回るような心と頭ではなく、自分の足元をしっかり見据え・掘る営み=「民知」の実践がおおきな「国際性」をつくるのだと思います。他者に合わせるのではなく、深い自己納得=主観性を深め豊かにすることがポイントです。「実存としての生」という場所では日本人も外国人もありませんから。
キーワードは、「民知―恋知」・「主観性の学」・「腑に落ちる知」・「心身全体での会得」、「実存として生きる」・「エロースの生」・「悦び」・「魅力」、などでしょう。
武田康弘 10月5日
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武田様
お返事拝見し、深く納得しました。
世界中の人々と「人間としての深い地点での共同性を獲得」出来たら
どんなにか素晴らしいでしょう!
ありがとうございました。
楊原
いつもありがとうございます。
Aさんのメールや 綿貫さん と 阿部さんのお書きになったものを読ませて
いただきました。
難しい「哲学論」ではなく、生活に根ざしたよりよく生きるための哲学である
「民知」を実感しました。
「民知」(PCでいきなり変換できるように「恋知」とともに登録しなくちゃ)の集合によってやがては社会をよき方向に動かすことが出来るのですよね。
漠然とした稚拙な質問ですが‥
私は過去に向き合う調査を続けているので、どうしても近現代に関する
歴史認識のあり方が気になってしまいます。日本だけでなく、アジアの国々
も含めてですが、「民知」の立場から「偏狭なナショナリズム」にどう向き合えばいいのでしょう?
金さんがお考えの「日本及びアジアの国々に広めようという活動」に大きな
影響を与えることではないかと思います。
お暇な時にゆっくり教えて下さい。
楊原泰子。
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楊原様。メールありがとうございます。
楊原さんのいう通り、「民知」の集合によって、
日本人の考え方=価値観そのものを動かしていくことが、おおもとから社会=人間を変えることになるわけです。自分の足元が見えない「愚かなインテリ」ばかりでは終わってしまいますから。
「近現代に関する歴史認識のあり方が気になってしまいます。・・『民知』の立場から『偏狭なナショナリズム』にどう向き合えばいいのでしょう?」(楊原)
この問題の核心は、明治半ばで固まった政府の「近代天皇制」=「天皇教」による教育政策(洗脳)にありますので、最大の責任者は、この理念の下に具体の政策を進めたエリート官僚と政治家です。したがって、私は、天皇教(その総本山が靖国神社)の問題をクリアーしない限り「戦後」も終わらない、と思っています。天皇教や東大病という序列宗教と、個々人から立ち昇るエロースを産み出す「民知」(恋知)とは対極にある思想です。
「偏狭なナショナリズム」を越えるために、従来の「左翼」的思想は無力です。「ナショナリズム」に対して「国際主義」を掲げるのは「弱い」思想でしかありません。
「知」のありようそのものを変えることが必要です。それが「民知」です。何かの理論や権威に頼ろうとする脆弱な精神、しばしば「西洋かぶれ」と称されるような舶来礼賛の頭では何事も成しえません。日々の具体的経験から立ち上げる思索が必要です。自分の足元を掘り進めていくと必ず裸の私=実存に出会います。そこからの出発が原理です。
右左のイデオロギーに頼る浮ついた精神や言語・概念主義の虚妄を超えて、五感全体で深く感じ知る能力を開発し、そこから自分の頭でよく思索・吟味することが何より大切、そう考えています。
そうした時、人間は、「・・主義」の危うさやいやらしさを超えて、人間としての深い地点での共同性を獲得するのではないでしょうか。落ち着きがなく、あちこち飛び回るような心と頭ではなく、自分の足元をしっかり見据え・掘る営み=「民知」の実践がおおきな「国際性」をつくるのだと思います。他者に合わせるのではなく、深い自己納得=主観性を深め豊かにすることがポイントです。「実存としての生」という場所では日本人も外国人もありませんから。
キーワードは、「民知―恋知」・「主観性の学」・「腑に落ちる知」・「心身全体での会得」、「実存として生きる」・「エロースの生」・「悦び」・「魅力」、などでしょう。
武田康弘 10月5日
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武田様
お返事拝見し、深く納得しました。
世界中の人々と「人間としての深い地点での共同性を獲得」出来たら
どんなにか素晴らしいでしょう!
ありがとうございました。
楊原