山脇直司です。
平和と芸術と哲学を愛するお二人(Hさんと武田さん)の一連のやり取りをみて、現代社会において公共世界を創出するのは、武田さんが強調するエロースだけでなく、ショーペンハウアーが強調したコンパッション(Mitleiden、共苦)が必要に思いました。連帯の絆を形成するコンパッション、実践的パワーとしてのエロース、そして(武田さんがお嫌いな?)アリストテレスのプロネーシス(状況に基づく賢慮)こそが、トランスナショナルな市民的公共性を創出しうると思います。これは、先日、国連大学の招きで来日したオーストラリアのケビン・クレメンツ(英国のNGOインターナショナル・アラート前事務局長)と話していて、再認識した次第。彼はその他に、モラル・イマジネーションの重要性をも指摘していました。
あと、この3月末に行われた国際宗教史学会での報告を基にした本が出版されたので、紹介します。http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4901916068/ref=pd_pym_rvi_6/249-4362774-9478742
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山脇さん、メールありがとうございます。
今日は、2時間の準備時間を入れて、朝から12時間授業!でした。頭がなくなりそう!(笑)。
「コンパッション」とは、大元はキリスト教の「あわれみ」ですか? 共感・共苦ということは、私の場合、日々の仕事はその感情抜きにはありえないのです。さまざまな境遇の子どもたちと交わるとき、コンパッシは必然です。ただしそれは論理以前の「「自然と湧き上がる情動」です。
「プロネーシス」も、対話(広義の政治)を支える実践的な知と捉えれば、市民的公共性をつくりだすものとなるのは、当然です。
また、「モラルイマジネーション」にしてもその重要性は仰るとおりだと思います。しかし、それは人間の生の原理としてのエロース論とは、次元を異にする話です。
両者は、次元がちがう話ですから、ぶつかりません。エロース論は哲学(恋知)の原理の話ですが、コンパッションは、自然な人間的感情のレベルの話、プロネーシスやモラルイマジネーションは、「公共」を生み出す手段の話です。
以下に、生の原理としての「エロース」について簡潔に書きましょう。
激しいエロースの力が創造を可能にし、生の高揚を生み出します。だからそれは別名「狂気」なのです。ただし、「聖なる狂気」(ソクラテス)ですが。
「恋」の欲望は、人間的なよきものの源泉です。この「狂気」」に手綱をつけるものは、「道徳」ではありません。その「狂気」を自身の中で「肯定」しつつも「配慮」へと向かう意思ですが、その「配慮」は、要請(ないし命令)されるのではなく、より上位の「よき・美しき」世界へ向かおうとする「欲望」が生み出すもの。
エロースを高めるのは、エロースの徹底です。よく・美しく変貌していくのは、「貫く」ことによります。愚直にこの「原理」を見つめることでしか実存としての意味充実の生は始まりません。自己と他者への配慮も、モラルイマジネーションも、対話へと向かう実践知も、トータルな社会像への希求も、そして何より大切な「生あるものを慈しみ・いとおしみ・愛する心」も、すべては広大なイマジネーションの世界が支え、可能にしていますが、その源泉は、エロースという人間的「狂気」なのです。
私は、何かに惹きつけられ・魅了される人間の心のありようを、エロースと呼んでいます。だから、さまざまなよき公共を生み出す概念とは少しもぶつかりませんが、両者は次元の違う話です。私のいう「エロース」とはあくまで「原理」の次元。したがって、「実践的パワーとしてのエロース」という山脇さんの捉え方は、私の考えとは似て非なるものです。また、「モラルイマジネーションは、ソフィアの属性であり、その中でエロースも輝くのだ」というHさん捉え方も、上記の私の考えとは逆になっていますが、それは、この言葉の定義―使用法が異っているからでしょう。私の用法はご説明した通りです。人間の「生きる」を直接支える力がエロースです。
武田康弘
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以上は、一月近く前に、山脇直司さん(東大大学院教授)のメールでの問題提起を受けて、「エロース」の概念―意味について返信したものです。ブログに出すにあたり一部手直ししました。
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