愛に欠けた人生を歩んできた可哀想な人が権力をもつと、恐ろしいウヨク国家主義者になります。
ネトウヨと呼ばれる安倍信者は、実に困った人たちだ、と思います。安倍晋三は、親の愛に飢えた悲しい少年時代を送りましたが、それが彼を独裁的政治家にしたのでしょう。
元官房長官でカミソリとあだなされた故・後藤田さんの「恐ろしい思想をもつ安倍君だけは総理にしてはいけない」は、見事に証明されています。
以下は、わたしの著作からです。
第2章の(1)で、恋知を象徴する人物として、416年に暴徒と化したキリスト教徒に惨殺された天文学者・数学者でもあったヒュパティアをソクラテスと共に紹介し、「愛と理性に基づいて生きる恋知者の受難」と書きました。
「愛情」と「理性」は、恋知者=豊かな人間性と共に生きる者の条件と言えるでしょうが、第一義的に求められるのは「愛情」です。さまざまな人間の感情、その中でもとりわけ「愛情」の豊かさがなければ、「理性」には意味がありません。愛情がない理性とは、根を切られた植物と同じで、すぐに枯れてしまいます。それは無意味どころではなく有害であり、人間の生を元から破壊します。「理性だけがある」というのはあり得ない想定で、人間の生にとっては根源矛盾です。
わたしは、いま、「愛」ではなく「愛情」という言葉を使いましたが、それは、愛を理念的・抽象的なものとしてイメージしてほしくないからです。とりわけキリスト教でいう「愛」=agape(アガペー)と言われる神の愛、罪人である人間に対して神が恩寵として与える愛という考えとは異なります。愛情と呼ばれる感情は、まず、動物や赤ちゃんが可愛いという気持ちから生じるもので、理念でも要請でもありません。抑圧や過当な競争がないふつうの生活から自ずと生じる何よりも人間的な感情です。
愛情、愛するという心と行為以上に重要なものはこの世には存在しないはずです。子どもや動物への愛、友人への愛、家族への愛、恋人への愛、そこから人間愛へ。豊かでイキイキとした愛の感情がなければ、生きる意味も生じません。もしも人が、そのような内的には生きる意味を持たない人生を続けなければならないとしたら、脳の奥深く(脳幹)にある爬虫類の戦闘脳に依拠して「競争原理」に従うほかありませんが、それでは自他の人間性を破壊する不幸に沈むだけです。
愛とは、精神論ではありません。行為としては「可愛がる」ことと同じです。では、可愛がるとはどういうことか、あまりに易し過ぎるゆえに「分からない」=実際に出来ていないことが多いのを、わたしは長年にわたる子どもたちとの交流と父母との対話で感じています。とくに高学歴者の親ほど頭でっかち・理屈先行で、知らない=出来ていないのです。
以下は、小学3年生の教科書(教育出版)に載っている『のらねこ』(三木卓著)からです。
「はははあん。そうだったったのか。」合点がいったリョウは言います。
「ねえ。きみ、もしかして、かわいがられるって、どういうことか知らないんじゃない。」
「知ってるわけないだろ。どこでも売ってないし。」
のらねこは、ぶすっとして言います。
「きみ、母さんは。」
「母さんなんて・・・・・。」
「ああ、やっぱりそうだったのか。かわいがるっていうのは、そばまで行って、相手にさわってあげたり、だいてあげたり、なでであげたりすることなんだよ。」
「へえ、そんなことするのか。で、そんなこと、なぜするのか。」
「ああ、それも知らないのか。かわいがってもらうと、とても気持ちがいいし、うれしくなるんだよ。」
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言うまでもなく、愛とは、まず始めは、可愛いという想いから生じる身体的行為であり、それは、どのような愛であれ、その絶対的基盤です。それが不足すれば、後は何をしようと虚妄です。
教科書に触れましたので、次に、子育て・教育の原理を簡明に記した白樺教育館・ソクラテス教室の基本文書をご紹介します。
お母様、お父様、すでにご経験の通り、子育て・教育の基本とは、文字通りの触れ合い=だっこしたり、おんぶしたり、頬ずりしたり、ふざけあったり、また、心のこもった視線や感情の豊かな抑揚のある言葉で接すること、一言で言えば、心身全体による愛です。
いうまでもなく、理屈以前の愉しい触れ合いがなければ、健全な心をもつ人間は育ちません。愛情とは、心身全体によるもので、子どもが自分を心底「肯定」できるのは、全身で愛されているという実感のみです。愛されて育つ子は、他者をよく受け入れ・愛することができます。
もしも、子どもを「言葉」だけで教育できると思っている方がおられるなら、それは明らかに間違いです。子どもが著しい適応障害を起こすのは、「理性」の不足によるのではなく「愛」の不足によるからです。心身全体による愛は、人間のさまざまな営みを「よい」ものにするための基本条件なのです。
武田康弘