思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

わたしたち日本人は、「会社人」と「社会人」が根本的に異なるものであることを知りません。

2017-07-30 | 教育

 われわれ日本人は、学校や会社などの一員になることと、公共性を持つこと=社会人になることとは根本的に異なることを知らない人が多すぎます。

 学校を出て定年まで会社に勤めることは、会社人間=組織人間ではあっても、社会人とは無縁であり、公共性とは無関係なのです。

 あるグループ、仲間、組織、団体の一員として「立派」に生きることは、【組織人の人生】であり、【社会人の人生】ではありません。

 では、どうすれば社会人(公共人)になれるのでしょうか。

 まず、絶対の前提は、私が感じ、想い、考えるという個人意識につき、それを明晰化する作業です。誰かさんの言う通りではなく、私はどう感じ、なにを想い、どのように考えるか、その「私の世界」をつくる営みが弱いと、他者の自我を了解することは不可能ですので、公共性を獲得する「はじめの一歩」が歩みだせません。

 皆とガヤガヤ集うこと、仲間と遊ぶこと、会社の一員として利益共同体の中を生きること、町内会の役員を引き受けること・・・・・をいくらしても、「私の世界」の弱い人は、ただ団子になるだけです。異なるものとしての互いの存在を認め合い、そこからよろこびの得られる人間関係・開かれた公共世界を生みだすこと イコール 「優れた社会性」は得られません。

 「私の世界」をつくることではじめて了解できる「他者の自我」の了解は、実に面白く、ダイナミックで、活力に富む「社会」を生む条件です。

 あの人、変わってるわね~、おかしいんじゃない。自己主張なんかして、目立つわよね。
というのとは反対に、自分と異なる、変わってる、そうだからこそ発展する、そうだからこ停滞を破れる、そうだからこそ大きな世界を拓ける、そうだからこそ新たなよろこびがやってくる、とするのが、公共性=社会性であり、そういう態度で生きられる人になってはじめて【社会人】なのです。

  日本人は、会社人(組織人)としてのみ一生を終わり、社会人にはなれないまま死にゆく!?であっては、不幸で哀しいと思います。個人も社会も生き生きしません。どんより停滞です。

 

 次に、絶対の前提の後、何を考え、何をするか。

 それは、わたしたちの生きる社会の構造=仕組みをしることです。
 
 いまは、天皇主権の明治憲法下にある日本ではなく、主権者を市民・国民とする民主政社会ですから、デモクラシー(demos+cracy)=民衆による支配=自治政治の意味、思想とシステムについて、しっかり知ることが求められます。

  主権者を市民・国民とする社会においては、その基本となる考え方と知識がなければ、とうてい「社会人」にはなれませんが、その教育は、家庭でも学校でも極めて不十分なのが現状です。

  小学生から、順を踏んで、自分たちの学校生活のありようを自分で考え、議論し、決める、という実地教育は、絶対に欠かせない要件ですが、ほとんどなされていません。先生の言う通り!(哀)というテイタラクです。自由な討論と皆で決定という土台と共に政治の仕組みを学ぶことがないと、民主政治=自治政治は不可能です。

 

 どうでしょうか。
わが日本では、社会人=公共人になる二つの条件、前提である個人性=「私の世界」の獲得と、必須であるはずのデモクラシーの教育(小学校~大学院)の両方ともとても貧弱です。なかにはこの「貧弱」をよいことのように思い込む人さえいますから、明治維新政府がつくった国体思想=靖国思想の負の遺産の大きさに目眩がします。このままではわが日本人は、永遠に社会人になれそうにありません。変えていきましょう!!

 まずは、一番大事な子育てから。

(☆以上は、昨日の大学クラスの授業から、その一部です)


武田康弘

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする