思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

在野の哲学者!?アカデミズム内に哲学者はいるのでしょうか。

2017-07-23 | 学芸

おおもとから考える、既存の意味=表層的な意味を打ち破って考える、幼児の心と目を持ち続けるのが「哲学者」(フィロソファー=恋知者)だとすると、

大学内に哲学者はいるのでしょうか? いるのは「哲学科教授」ですが、立派に身分を保障され、銀行口座に毎月お金が振り込まれる人がフィロソファー=恋知者になるのは、🐪が針の穴を通るより難しいのではないかと思います。

ソクラテスはむろんのこと、近代西ヨーロッパの哲学(キリスト教化された哲学)の開祖であるデカルトも、近代民主政をつくる見事なアイデア(社会契約論)を出したルソーも、みな在野の哲学者であり、大学教授ではありません。強固なシステム内の存在は、フィロソフィー=恋知の実践をするフィロソファー=恋知者にはなれませんので、哲学者とはイコール在野の哲学者のこと、と思います。

ルソー(職業は恋愛小説家)に、「在野の」という形容詞句をつける? 在野の哲学者のルソー(笑)

カントからはじまりヘーゲルに至る大学内哲学は、遅れたドイツでのみ可能でしたが、それは自ら哲学の敗北宣言を出したハイデガー(ナチ党員でヒトラーの思想を支えた)により終焉を迎えました。

大学という安全地帯では、生きた哲学=恋知は不可能で、未来を拓くフィロソフィーの営みは、在野でしかできません。それはソクラテス(職業は石工)の昔からのこと。


武田康弘

☆恋知とは何か。

 

 

 

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