いま、「恋知の会」では、授業の一部として『ブッダと親鸞』をしていますが、そのまとめです。
ブッダの遺教(遺言としての教え)は、自帰依ー法帰依です。
自分自身を拠り所=灯として生き、権威や権力に頭を下げない、ということです。
自分の内心の声と普遍性のある考え方に帰依し、世俗の力や価値に流されないことです。
これは、日本の封建時代からいまに続く道徳である「忠」=上位者への恭順とは正反対です。
世間の価値に合わせて生きる集団同調とは根本的に異なります。
自分自身の自由と責任によって生きることです。
同じことを表現を変えて、みな「天上天下唯我独尊」(天の上でも下でもただ我ひとり尊い)ともいいます。ほんらい、だれもがみなこの上なく尊い存在である、というわけですが、これは、最も優れた人間存在論であり、民主主義を支える究極の思想と言えます。
また、ブッダの悟りとは、縁によりすべては起きるという「縁起の法」に目覚めたことです。
老病死に惑う人間とその存在理由、宇宙開闢も社会の成立も、「神」の存在とそこから派生する物語を信じることではなく、すべては誰もはかることのできない縁により起こることの深い自覚です。縁起の法とは、キリスト教圏の言葉では無神論とも重なりますが、はじめから神という概念を必要としていないので、わざわざ無神論と言うのもおかしいでしょう。
ブッダの思想の深さや大きさは、儀式化した寺などで伝えられるようなものではなく、一人ひとりの回心により会得できるもの、とわたしは思います。
(※インドのブッダの思想は、同じ中央アジアから分かれた印欧語族のギリシャのソクラテスと根本は重なりますが、キリスト教という一神教とは原理がまるで異なります。)
武田康弘