★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

他力と蝉

2022-08-04 21:40:48 | 思想


親鸞は父母の孝養のためとて念仏、一返にても申したることいまだ候わず。そのゆえは、一切の有情は皆もって世々生々の父母兄弟なり。いずれもいずれも、この順次生に仏に成りて助け候べきなり。わが力にて励む善にても候わばこそ、念仏を廻向して父母をも助け候わめ、ただ自力をすてて急ぎ浄土のさとりを開きなば、六道四生のあいだ、いずれの業苦に沈めりとも、神通方便をもってまず有縁を度すべきなり、と云々。

というわけで、我々をとりまくあらゆるものが仏である、またはありうるということで、庭の蝉にスマホのカメラを向けていたところ、しゃっとおしっこをして飛び去っていった。こやつは将来、おしっこを垂れ流す人間の子どもに生まれ変わる可能性がある。

自力と他力の議論は、歎異抄の世界に於いて重大な問題なのだが、我々の世界は、自力と他力の中間に膨大に広がる世界で右往左往している。つまり主観でも客観でもある世界が広がりすぎたのであった。スマートフォンもメディアの一種である。むかし、写真とは絵の一種であったが、最近は情報に寄っていっている。我々は自力でも他力でもない何かに意識を乗っ取られた。最近「中動態」の議論が流行るのも、古いものの発見であるよりも自分の発見である。

そうしたときに、自力の善が不可能である場合に、他力によって仏と成り他人を救うというやりかたが、どこまで可能なのであろう。

海が彼らの交通を遮断するのは当然ですが、なお少しは水を泳ぐこともできました。山中にはもとより東西の通路があって、老功なる木樵・猟師は容易にこれを認めて遭遇を避けました。夜分には彼らもずいぶん里近くを通りました。その方が路が楽であったことは、彼らとても変りはないはずです。鉄道の始めて通じた時はさぞ驚いたろうと思いますが、今では隧道なども利用しているかも知れませぬ。火と物音にさえ警戒しておれば、平地人の方から気がつく虞はないからであります。

――柳田國男「山の人生」


確かに柄谷行人がスキそうなエピソードであり、他力と自力とかはこういう交通=他者性に欠けているとは言えるかも知れない。もっとも、問題は柳田もまた実際の山人にあったかどうかは分からないことであった。だから、柳田のような緊張感からの覚醒に於いて、われわれはまた自分が生きていることそのもの、存在の議論に向かうであろう。