念仏は行者のために非行・非善なり。わが計らいにて行ずるにあらざれば非行という、わが計らいにてつくる善にもあらざれば非善という。ひとえに他力にして自力を離れたるゆえに、行者のためには非行・非善なり、と云々。
念仏は自力の心を離れ他力自然に行われるものである。これが他人や場所こそが主体でみたいな論理に滑り落ちていったのが、戦争の頃であった。あくまで念仏は言葉であり、自力は否定されているとは言え、自らはじめなければ他力はなく、にもかかわらず自ら始めることに他力の力があることを自覚する必要がある。それが「非」の効果であり、我々は自己否定的にしか行為出来ないぐらいの論理のほうがよかったのではないかと思う。
母国語と自分の習った言語とは決して相対的にはならない。無理にそういう風に考えると、我々は我々自身に対する繊細さを失う。その繊細さは、我が国に宿命的な自己否定的な契機への自覚である。鷗外や漱石はバイリンガルみたいな相対性を持っていたんじゃないかと思う人もいるだろうが、彼らの國文的な語彙と修辞レベルはそもそもすごいわけで、あのレベルに達したやつだけが、それ自体同じようにすごいレベルをもった外国語に対する相対性を言うことが出来る。貧しい外国語の習熟レベルに母国語あわせてどうすんじゃ。
「現代の日本語」というのは純粋には存在していない。その実、漢文、古文、流行語、造語、種々の外国語の変形物の鵺的な混合体で、この混合の妙がわれわれをつくっている、それがいわば口語としての「国語」なのである。それが「妙」なのは、その混合を自分で再体験することによって自覚されることだからである。それが我々の日本に対する自覚である。そのようなあり方がいやならむしろ外国語を全面的に強制した方がはやい。外国語を公用語にすればよいじゃんみたいなエリートはずっと昔からいたわけだが、それが実現しない理由をかんがえないで、日本語に閉じこもるのは今や無理とかいう主張をしてんのは、きわめて伝統的なものである。彼らのなかで、「国語」の鵺的頑強さと蕪雑さの不思議に立ち向かったものだけが、作品を残した。そしてそれは大概、日本の権力とは何かという考察に満ちている。それは当然で、鵺としての主体は日本の権力にあるからである。それを三島由紀夫なら皇室と言うであろう。
そういえば、私が中学で英語の授業が厭だったのは、こっちの頭は外国の文学のシーンであふれかえっているのに、「おはよう」「これはペンです」から入るのが精神的に許せなかったというのはあるのだ。はやく文学作品を購読してもらった方が俺は楽しかった(ついていけたかはわからんが……)。文学教育としての小学校の「国語」教育がうまくいきすぎていたのかもしれない。国語の時間は日本語の練習をしているのではなくて、日本文化の吸収をしているとみなすべきなのである。そのレベルを気づけなかった人たちが、国語をコミュニケーションの道具にまで分解しようとしているが、分解したものはもはや言語ではない。コミュニケーションというのは情緒なのだ。それでおれたちは辛うじて生きているわけである。英語教育がそうであるべきなのかは専門じゃないから分からないが、空疎なコミュニケーションの練習に耐えられないやつはつねにいるはずだ。
コミュニケーション能力がないとかいう人間が増えているのは、情緒であるところの言葉のやりとりを、言語の「コミュニケーション」として行おうとした結果、コミュニケーションが実現しないからに他ならない。自分たちで自分たちを病人に仕立てているわけだ。それにしても、「源氏物語」と「罪と罰」を通読したことのないやつとはお話ししたくありません、とか学生に言っちゃうおれはダメ。