所の馬かた四五人。此女良をしのび行て。うき世の事どもを語りつくして。情といへど。取あへずましませば。荒男の無理に。手をさしてなやめる時。左右へ蛇のかしらを出し。男どもに喰付て。身をいためる事。大かたならず。何れも眼くらみ。氣をうしなひ。命を不思義にのがれ。其年中は。難病にあへり。其後はのり物。芥川にありともいへり。または松の尾の。神前にも見へ。つぎの日は。丹波の山ちかく行。片時も定めがたし。後にはうつくしき禿に替り。または八十余歳の翁となり。或は㒵ふたつになし。目鼻のない姥とも成。見る人毎に。同じ形にはあらず。是に恐れて。夜に人里の通ひもなく。世のさまたげとなりぬ。
沖田瑞穂氏が最近『怖い家』という本を書かれてて、閉鎖空間の神話的意味について論じていたが、確かに、箱というのはすべてパンドラ的な不気味さがあるものだ。美女が乗っていたのでイジワルしよう思ったら蛇が出てきてかみつかれ、少女になったり翁になったり、目鼻のない姥になったり、ひとによって見え方がちがうし、場所もちがったりするのであった。もっとも、この乗り物は摂津から京にかけての街道にあった。不気味なのは動く箱であった。安部公房の箱の先駆である。しかし、本当に怖いのは移動しない箱であって、家も監獄も〈怖い家〉の一種である。
学校もそうである。
昼間テレビ見てて、なにかの教団の内部を取材したドキュメントかと思ったら、どこかの小学校だった。こんな職場が平気な人間は意外とすくないぞ、、、、。わたくしは、ずっと学校のブラック化は部活問題に矮小化されちゃだめだと主張している。原因は世間や文科省であっても、問題は職場全体が精神の自由みたいなものを排除して成り立っている場合が多すぎることだ。これはわれわれの社会が望んでこうなった側面が大きい。児童たちは、よくあんな猫なで声の大人に耐えられるな、小学生のおれだったら一気に登校拒否だ、と思うが、――案外上手くいっているという点が重要である。児童たちも社会の(――というより、社会に対してすら閉じている「家庭」の)産物で、彼らが学校を強制している側面を看過していては議論は始まらない。
大学の教員養成がこの20年ぐらい、教員養成に特化したような教育に舵を切ったことと現場のブラック化は関係があると思う。そもそも、なんでも「特化」するとブラック化するにきまっているのである。外部との関係が失われるわけだから。教科書をおしえるためには、教科書の外部が分かっていないと駄目で、それがないのにおしえりゃ、そりゃ教室がある種の宗教に似てくるのは、当たり前の話である。所詮学校は学校に過ぎず、適当にくぐり抜けなければ大変なことになるくらい、教育の歴史をちょっとでも勉強すればわかるはずである。そういうことを知ることと教師として一生懸命やるのは全然矛盾しない。しかし、教員がこれを矛盾と感じるようなロボットになってしまっては、もはやおしまいというほかはない。別に終わる訳じゃなく、地獄が天国的に続くだけだ。
でも外部を失わないようにとかいうと、世間知らずにならんように社会に一回出てこい、とか無意味な意見が叢生するにきまっている。なぜ無意味かといえば、社会は学校よりも狭い箱であって、そこには子どもという外部すら存在しない、パンドラの箱であるからである。大きい箱が小さい箱よりも外側にあるとは限らない。パンドラの箱とは、社会のような箱が閉じ込められているがゆえに、一度あけたら一気に外部面するやっかいな箱である。たいがい、「家庭」のような閉鎖空間でのルサンチマンが、一気に投影されうるのが社会で、まだ学校はその次だ。先生の存在には、社会が家庭の攻勢で崩壊するのを防いでいる側面だってあるのである。このまえの暗殺事件は社会に対するテロであるが、わたくしには、時々ある学校へのテロの方が厚い壁を乗り越えているように感じられる。わたくしはむかしから、学校に対するテロと社会に対するテロとを比較してものを考えるべきだと思っている。