久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、いまだ生まれざる安養浄土はこひしからず候こと、まことによくよく煩悩の興盛に候ふにこそ。なごりをしくおもへども、娑婆の縁尽きて、ちからなくしてをはるときに、かの土へはまいるべきなり。いそぎまいりたきこころなきものを、ことにあはれみたまふなり。これにつけてこそ、いよいよ大悲願はたのもしく、往生は決定と存じ候へ。踊躍歓喜のこころもあり、いそぎ浄土へもまゐりたく候はんには、煩悩のなきやらんと、あやしく候ひまなしと云々。
我々は煩悩に満ちており、それを取り除くことはできない。しかしだからこそ往生出来るものであって、逆に念仏唱えてイイキモチになっているのはその煩悩に気づけないセンスの悪さだ、と親鸞は言う。
もっとも、煩悩にもいろいろあるので、念仏しても踊躍歓喜しないので不安な唯円は、なにかとても念仏でどうにかなるものでもなさそうな罪を抱えていたのかもしれない。親鸞は、ひどいやつほど救われようとは言うが、いくら何でも思う場合があるであろう。極楽往生は出来るかも知れないが、当時はしらないうちに弾みで恨まれて殺されるなんてことがあった世の中なのである。煩悩は自分のなかにもあるけれども社会関係としてもあり、その絡まり合った糸まで往生出来るわけではあるまい。むしろ煩悩が心の問題だと思い切れるのは孤独な坊主だからではなかったであろうか。
夏目漱石の「吾輩は猫である」というのは、この断定がある意味気持ちよいと同時に気持ち悪いものである。それはこの猫の断定的な批評に突っ込むやつがいないからであり、作者はたまらず、猫を殺してしまったのだ。猫は坊主のようなものであり、孤独なのだ。その罪は世の中の偶然というか、運命による他はなかった。しかしれっきとした殺人者がいて、それが作者である。中勘助がこういう下品な作品はキライみたいなこと言ってたのがわかる気がする。中勘助の小説は、つねに他人の気持ちばかりが、つまり他人との情緒ばかりが書かれているからである。
「仮面ライダー」というのも、孤独な人間を英雄としてえがいていた。それはなにか復讐を世界の平和と無理やり言っている哀しさがあったからである。ある団体に改造を受け、家族も殺され、けれども魂は売らなかったぞ復讐してやる、というストーリーで、――よく考えてみたら、あまり今日しゃれにならん設定である。ネトウヨが左翼になるとかいうレベルではない。転向ではなく、復讐が目的になった人生というものがあるのだ。これは他人との情緒がありながら孤独を持ち運ばなければならない。こんな罪は許されるのか、否か。