慈悲に聖道・浄土のかわりめあり。聖道の慈悲というは、ものを憐れみ愛しみ育むなり。しかれども、思うがごとく助け遂ぐること、極めてありがたし。浄土の慈悲というは、念仏して急ぎ仏になりて、大慈大悲心をもって思うがごとく衆生を利益するをいうべきなり。
これは教育のようなものにも当てはまる。慈悲の心を以て子どもに近づいていっても子どもが教育されることは有り難い。だからまず仏になってもう一回慈悲に降り立たなければならない。つまり勉強してないやつが、教壇に立つなどもってのほかというやつであった。
いまや衆生を救おうではなく、「みんなオラに元気をわけてくれ」、つまりマンガの主人公みたいな感じである。主人公にならないとみんなが助けてくれないのである。そうでなければ、いわば「みんなの元気は既にいただいた今度も予告なしにいただきたいと思うので来週もぜってえ働いてくれよな」みたいな消費税方式が横行するばかりだ。
私の云ひたいことは、今や、衣食住だけ足りれば好い人達の時勢だといふことである。平凡万能だといふことである。さうして、平凡万能の時勢が、表明するとしないとに関らず醸しだしてゐる空気といふものは、智的なものでも芸術的なものでもないといふことである。
それをよいともわるいとも私は思はぬ。然し、そのやうな空気の中に元気でゐられるといふことは、インテリらしいインテリではないと云ふのである。
そして、その空気が、インテリに適してゐるとゐないとに関らず、つまり、世間が観念を必要としようとしまいと、例へば芸術といふものは、観念に依存した事であるといふのである。
恐らく、芸術家は、昔日よりも、一層の孤独を必要とするであらう。
――中原中也「作家と孤独」
中也にしては平凡な意見な気がするが、さっき講談社文庫の『東京オリンピック 文学者の見た世紀の祭典』を眺めていたら、ほんとあんまりにも文学者たちは切れ味をなくしてぼやっとしているのをみて、まだましであると思った。大江健三郎でさえ、エロチックな黒人みたいな正義をまぶしたような描写をするだけであるし、ひどいのは小田実で、戦争では神風は吹かなかったが、開会式は青天でつまり神風ふいたねみたいなことを言っている。みんな、元気をオリンピックに吸い取られたのであろう。考えてみると、小田実は、神風でオリンピクスタジアムをなぎ倒せみたいな、思い切って右翼的言動をとれば、抑圧された日本の何者かに気付いたかもしれないのである。