★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

転向

2022-08-29 23:38:25 | 文学


おふねは浦々めづれば。家中の舟は磯にさしつけ。阿波嶋の。神垣のあたりまでも荒し。若き人々。酒興せしに。俄に高浪となり。黒雲立かさなり。長十丈あまりの。うはばみの出。鱗は風車のごとし。左右の角枯木と見えて。くはゑん吹立。山更にうごくと見て。いづれもさはぎけるに。間近くきたりしに。御長刀にて拂ひたまへば。おそれて跡にかへる。大うねりして。小舟は天地かへしてなやみぬ。沖より十弐人乗し。小早横切に押と見えしが。蛇蝎一息に呑込。身もだへせしが。間もなく跡へぬけて。汀に流れつきしを見るに。残らず夢中になつて。かしら髪一筋もなく。十弐人つくり坊主となれり。

怪物に飲み込まれてでてきたときにはみんな恐怖の余り坊主になってました、という「十二人の俄坊主」。世の中には、十二人の怒れる男とか、ほかにも十二人の話がいろいろあったような気がするが、十二人の怒れる男たちの場合、人間性の変化というより、人生が明らかになることで空気が徐々にかわってゆくお話であって、中学か高校のときだったか、ある劇団がきて上演していったのをいまもおぼえている。最後に、不良息子を抱えた親父が「転向」することでようやく全体の意思表示も覆る。この話し合いをリードした男の我慢強さに思春期のわたしはびっくりしたが、――当時の教師をはじめ、最後の親父の「転向」であるとみていたようだ。わたくしはそりゃそうなんだが、こういう親父は人に言われなきゃ「転向」はしないんだがな。。。とわたくしは思った。しかし、この親父が馬鹿だとは思わない。いろいろ考えて「転向」したことは確かである。

「転向」とは、なんだか権力や空気が怖ろしいから日和ったというより、ある種の理詰めでうんうん唸ってぎゅいんと曲がってた、みたいなものが多いのだ。戦後の「転向」論議は、たいがい「転向」者の内的な経験をなめている。吉本隆明ですらそうであった。吉本は種々の理論的試みにくらべて「転向論」はだめな部類に入ると思うのだ。同時代人としての感覚を軽視するわけにはいかないが、なぜみんなあっさりとしているのかちょっと不思議である。

思うに、我々の「転向」は大概「堕落」であり、上昇ではない。安吾は――かいていないけど、そこら辺は自覚していて「淪落」ではなく「堕落」の人として戦後のヒーローになった。下降的なセンスというか、進んでそういうところに行きたがる人が多いのが昔から不思議であったが、最近気付いたのだのだが、重力だ。草葉の陰に下降してゆく重力が我々を縛っている。この感覚は、自分の思考さえも重力の結果として認識させてしまうのではなかろうか。