念仏者は無碍の一道なり。そのいわれ如何とならば、信心の行者には、天神・地祇も敬伏し、魔界・外道も障碍することなし。罪悪も業報を感ずることあたわず、諸善も及ぶことなきゆえに、無碍の一道なり、と云々。
これが「一道」であるかぎり、かなり長い時間をしめすものとかんがえなくてはならぬ。念仏を一生懸命唱えるものには一貫性が生じる。念仏を唱えるとは、そのときだけ唱えるのではなく、ずっと唱える「者」になることである。
われわれにとって怖ろしいのは、時間である。我々は無常観とかそれを呼んできたのだが、その平板な語感に比べて実際の意味するところは、有が無に転ずるところの虚無の表現である。東浩紀氏の「平成という病」(『忘却にあらがう』)はそういう無力感に溢れた文章である。東氏は、平成が始まった頃は、自分もホリエモンもわかく、変革への希望があった、が社会はそう簡単にかわらない、と述べている。社会のためではなく自分のできることをしましょう、と彼は言う。自分の出来ることとは、上の念仏のようなものである。
私は平成が始まった頃にかなりの無力感に苛まれていたし、80年代の浮遊感の方への絶望が中・高とあったこともあって、同じような年代でも絶望のあり方はかなりちがうんだなと思った。近代のエリートリベラル知識人たちが、揃いも揃って歎異抄に帰依して行くのは、ひそかに社会のせいにしたいという欲望の現れかも知れず、それを自分の出来ることを、というせりふで封じ込めているためではないだろうか。私は幸運なことに、はじめから希望がないのでまだそうはなっていない気がする。
青木理氏の『安倍三代』は、安倍晋三氏が政治家への立身とか葛藤とは無縁で全てに於いて平凡で凡庸であったことを空虚さとして見ているところがある。しかし、その平凡さと凡庸さというものは、人間関係の調達への努力、ものすごく神経を使う生き方が必要なのだと思う。勉強が出来たり政治意識が高かったりするとそれが空虚にみえるが、むしろその努力と神経質さを欠落させて優等生やリーダーというものに子どもはなるところがある。安倍氏の周囲の人間がそろって学生時代の彼を平凡だと認識しているということは彼の努力が実っていたということだ。
人に合わせたりさぼるだけでは平凡さと凡庸さにたどりつくことはできない。そういえば、わたしもそうだったからそう思うのかもしれないが、彼が熾烈な受験を経験していないということは、苦労もしていないかわりに疲れてもいなかったんじゃないか。大学以降学び始める人間というのもいるのだ。安倍昭恵氏が言ったという「安倍晋三には天命がある」みたいなものも本当だとしたらすごくそういう人間は強いぜ。右も左もイデオロギーをシステムの効果みたいに相対化してしまっている多くの人間とは比べものにならんほどつよい。わざわざ、念仏にすがらくても天命に目覚めればよいわけである。それは、小さい頃から押しつけられる目標に向かって努力せず、ぼやっとしかも周到に平凡さに向かって成熟していった場合、そういうことがあり得ると思うのである。
それほど社会が学校化していない時代、安倍氏のような天命を持つ人間は案外多かったし、いままた多くなってきていると思うのである。