★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

歎異の中を歩め

2022-08-17 18:48:00 | 思想


悲しきかなや、幸いに念仏しながら、直に報土に生まれずして辺 地に宿をとらんこと。一室の行者の中に信心異なることなからん ために、泣く泣く筆を染めてこれを記す。名づけて歎異抄というべし。外見あるべからず。[…]親鸞僧儀を改めて俗名を賜う、よって僧に非ず俗に非ず、 然る間「禿」の字を以て姓と為して奏聞を経られおわんぬ。彼の御申し状、今に外記庁に納まると云々。 流罪以後「愚禿親鸞」と書かしめ給うなり。

「歎異抄」は、迫害にあった親鸞とその弟子たちが「外見あるべからず」(外部に見せてはならぬ)と言ったもの。言ってみりゃ秘密文書である。いまはなんだかベストセラーの一つにもなってしまっており、なんだかその理由はよくわからないが、悪人正機、他力本願の主張とは別に、唯円が書いたと言われる本のなんとなく焦点があってない、素人くささが残るかんじがその理由ではないだろうか。日蓮のそれのように、自分お言葉が刃のようになっているものは、われわれを彼方に連れて行くけれども、われわれの多くは老いても別にそういうことを望んでいないのだ。生悟りが心地よいというのはある。

私は田舎育ちではあるが、その中でも街道筋のもと職人街の長屋家屋育ちなので、隣の家と壁一枚で繋がっているかんじだったが、生活音はたてても?自分から出る足音とかはあまり甲高くならないように育ってる気がする。現代人はなんとなく自分が音を立ててることに無意識な人が多くなったようなきがする。むろん、むかしのおじさんたちのでかい声はいまとは比べものにならないんだが、それでも不快ではないしゃべりというものはあった。われわれは動物なので、動きや出す音などは非人間的な動物的なところがある。それを人間にみせる作法がいろいろあるんだと思うが、それを訓練する機会が減っているのだ。で、むかしはもう少しあの人は何何教でとかなんとかでということを身近に話してた様な気がするんだが子ども心に指標だなと思ってたのは、その人間的動作のちょっと違いである。その点、今の大学生はかなりの割合どこかに入信してるんじゃないかと思わせるところがある、たぶん勘違いである。

思い込みも多分にあるんだろうが、勉強やり過ぎておかしくなったな、みたいなことがある種の常識であるような共同体は無論排外的でもあるけれども、いわゆる勉強が、現実に利用出来るとか役に立つとか真理だとかいう以前に、あるゾーンに入っちまうことであることは自覚している人が昔は多かったと思う。何でもいいけれども、すごい長篇小説を読んだら世界が違ってしまうようなことが勉強でも起きているし、面白い学問はそういうもんだ。いまのリベラルや保守がおかしいと思うのは、自分の勉強したことが、直接現実に繋がっていると思っていることかな。そのゾーンの壁は良くも悪くも最後まで存在してるのではなかろうか。やたら会話文とか入れて学問の世界を日常に繋げようとする問題とかが、なにか「不快」なのはそのせいだろう。日常と学問はお互いに敬して遠ざけるみたいな感じじゃないと、おたがいに暴力的になってしまう。ほんとは昔から敵対的ではあったが、それは社交的人間的動作とともにあったから大丈夫であったに過ぎず、言葉だけだと喧嘩になってしまうのであった。

こういうときに、日蓮のような現実との対決がよいのか、歎異抄みたいなゾーンにはいったよという日常という引き延ばしの中を生きるか、――我々の世界はいまだ、この選択の幅の中をうろうろしているのである。歎異抄のなかに駄目な考えとして反論されているものはすべて、この引き延ばしを欺瞞と感じるためにでてきた異見なのだ。

しかし、そこでうろうろしているというのは、観念的な把握かも知れない。我々の世界はもっと罪と罰の世界である。のみならず近代社会は、罰を性急に下さない正義を選んだために、罪と罰の中間地帯を延々歩まされるのである。個人的な体験でもあるが、嘘をついても大丈夫であるような環境になれると、ある種の罪悪感の持続で人の精神は容易におかしくなることがある。鬱の原因にもなってるかもしれない。モラルが人の精神を破壊する場合もあるけれども、崩壊から救ってる面はかなりあるのだ。許されることによる罰というのは文学ではよく扱われるけれども、もう少し注目されてもいいんじゃねえかと思う。