あたりを見れば、天井より四つ手の女、㒵は乙御前の黑きがごとし。腰うすびらたく、腹這にして、奥さまのあたりへ寄と見へしが、かなしき御聲をあげさせられ『守刀を持て、まいれ』と仰けるに、おそばに有し蔵之助とりに立間に、其面影消て、御夢物語のおそろし。我うしろ骨とおもふ所に、大釘をうち込と、おぼしめすより、魂きゆるがごとくならせられしが、されども御身には何の子細もなく、疊には血を流して有しを
西鶴はどちらかというと瞬間的な冴えの人のような気がする。「見せぬ所は女大工」でもこういうところがすごくうまくて、オチがかすむほどである。西鶴にもなんだか不思議なミソジニーがありそうだとは思う場面でもある。
われわれはしかし、瞬間の独特さが、どのように人生に影響するか考えてきた文化の中で生きている。そういえば、むかし「テロは瞬間だが未来を照らす」とか言ってたお兄さんたちがいたけれども、なんというか――テロは割と昔から過去を照らすよね。。今回も、照らされるのは過去である。
そういうときには、哲学者は西田幾多郎は瞬間を隙間とみてそこに何が入っているか、当てはまるかと考え、文学のほうは、なにが未来に数珠つなぎになるか、つまり瞬間の重なりのほうを見てる傾向はあると言えばあるかもしれん。
歴史的世界の生産様式が非生産的として、同じ生産が繰返されると考えられる時、それが普通に考えられる如き直線的進行の時である。現在というものは無内容である、現在が形を有たない、把握することのできない瞬間の一点と考えられる。過去と未来とは把握することのできない瞬間の一点において結合すると考えられる。物理的に考えられる時というのは、かかるものであろう。物理的に考えられる世界には、生産ということはない、同じ世界の繰返しに過ぎない。空間的な、単なる多の世界である。生物的世界に至っては、既に生産様式が内容を有つ、時が形を有つということができる。合目的的作用において、過去から未来へということは逆に未来からということであり、過去から未来へというのが、単に直線的進行ということでなく、円環的であるということである。生産様式が一種の内容を有つということである、過去と未来との矛盾的自己同一としての現在が形を有つということである。かかる形というのが、生物の種というものである。歴史的世界の生産様式である。これを主体的という。生物的世界においては既に場所的現在において過去と未来とが対立し、主体が環境を、環境が主体を形成すると考えられる。而してそれは個物的多が、単なる個物的多ではなくして、個物的として自己自身を形成するということである。しかし生物的世界はなお絶対矛盾的自己同一の世界ではない。
――西田幾多郎「絶対矛盾的自己同一」
同じ生産が繰り返されることなんかホントにあるのだろうか。生物たちでさえ、繰り返していないのではなかろうか。つまり、天井を這ったりしているのではなかろうか。