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専修念仏のともがらの、わが弟子、人の弟子という相論の候ふらんこと、もつてのほかの子細なり。親鸞は弟子一人ももたず候ふ。そのゆゑは、わがはからひにて、ひとに念仏を申させ候はばこそ、弟子にても候はめ。弥陀の御もよほしにあずかつて念仏申し候ふひとを、わが弟子と申すこと、きはめたる荒涼のことなり。つくべき縁あればともなひ、はなるべき縁あればはなるることのあるをも、師をそむきて、ひとにつれて念仏すれば、往生すべからざるものなりなんどいふこと、不可説なり。如来よりたまはりたる信心を、わがものがほに、とりかへさんと申すにや。かへすがへすもあるべからざることなり。自然のことわりにあいかなはば、仏恩をもしり、また師の恩をもしるべきなりと云々。
親鸞は師の恩というものを否定しているわけではなく、それが存在するためには、仏恩が存在している必要があるというのである。それはそうである、師というのは伝道者に過ぎないのだから。
本多顕彰の『歎異抄入門』の上記の箇所の解説を読むと、最近の学生が恩知らずなのは、彼らが学費を苦しんで払っているにも関わらず、それが大したことのない額のために?、師である自分たちに十分な恩(給料)を返すことが出来ないためである、すなわち学費は全部国庫負担にせよ、みたいな怖ろしく煩悩的な話をしていて、――「こんなところで興奮してはならなかった」と言っているのだが、
本多は怖い先生で通っていたらしい(ご自身がそう言っている)のだが、本当はどんな恐ろしさであったのだろうか。彼の『大学教授』(カッパブックス)は昔のベストセラーだが、これをよむと結構な良心的な人であるようにもみえる。口は悪いが。
戦時中、徴兵猶予のために大学に学生が殺到した時期があったようだ。しかし、つぎつぎに学生が徴兵にとられるようになって、その不安定な学生に学問を強要するのは気が咎めるようになっていったと本多は言う。こういうところが普通の人情派である。いまだったら、就職活動で不安定な学生に勉強を強要するのはどうかと懊悩するようなタイプである。わたくしは、そういう学生にはむしろ学問を強要する。不安は他人に対する脅迫である。本当は不安ではなくて生き方の方に問題がある。
確かに憂き世では、ことごとくに何もかもが、困難の表情をしてせまってくるので、どうしよう涙が出てきちゃう、という感じで生きている人はいるものである。たいがいの研究者はこれに比べればほとんどジャイアンみたいなやつであることを忘れてはならぬ。私もジャイアンの一味であろうが、ジャイアンにも種類がいて、懊悩して学生に甘くなるジャイアンもいるだけのことだ。