★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

学問と罵倒

2022-08-12 20:52:35 | 思想


いまの世には、学文して、ひとのそしりをやめ、ひとへに、論義問答むねとせんと、 かまへられさふらうにや。学問せば、いよいよ、如来の御本意をしり、悲願の広大のむねをも存知して、 「いやしからん身にて往生はいかが」なんど、あやぶまんひとにも、本願には 善悪・浄穢なき おもむきをも、とききかせられさふらはばこそ、学生のかひにてもさふらはめ。たまたま、なにごころもなく、 本願に相応して念仏するひとをも、「学文してこそ」なんどいひをどさるる こと、法の魔障なり、 仏の怨敵なり。みづから、他力の信心かくるのみならず、あやまつて他をまよはさんとす。つつしんでおそるべし、先師の御こころにそむくことを。かねてあはれむべし、弥陀の本願にあらざることを。

学問をやればいいのかよくないのかどっちなんだよ、と言いたがる人々は多いが、そういうすっとこどっこいはさっさと勉強してもらったほうがいい。まだバカを発揮するのに猶予が出来るからだ。

そういえば、東大のある先生が、本に批判や感想などを書き込みながら読書するという方法をある塾のパンフレットに書いていた。それ、むかし私もやってたけど、それは自分でそのやり方に気付きその副作用もなんとなく自覚してやったからというのがあるんで、学生にはあまりすすめない。いまの学生にとって、むしろ長いスパンでの読み取りが難しくなり、悪影響が心配される。学生によるが、多くの人いま必要なのは、自分の思ったことをすぐに口に出さず、意見としてまとめる欲望にストップをかける訓練だと思う。

学問が煩悩をドライブする形になっているのが、いまの教育である。すぐハイハイ!と手を上げて意見を言ってしまう国民は、主体がもう存在者となっているからいいのだ。われわれみたいな、欲望のためには必死になって言葉を発するが、そうでないときには何もしない自由を優先する人たちに、言葉を発したほうが勝ちと聞いたらとりあえずしゃべり、それが何もしないことの保証になっている。感想を持つスピードより、仕事をやり遂げるスピードはとうぜんながらかなりゆっくりしたものだ。口先の感想を振りまきつつその実何もやってない人間をこれ以上増やさないために、やるまで黙る教育をした方が良い気がするのである。

本多顕彰によれば、ドイツ文学の池山栄吉は仏教者としても有名で、本多が第六高等学校に参観しにきたときに、彼を連れてずっと念仏を唱えていたそうである。本多は、学問によって名誉欲にとらわれるのはいかんと彼は思っていたという。それにしても常軌を逸した先生である。こんな変人はいまは大学の中にはなかなかいないのではないか。

念仏は意味であって意味に非ず。欲望を言葉によって無化してゆく作用があるのである。そういえば、中沢啓治の罵倒なんかもそうだ。『げんこつ岩太』なんか名言のオンパレードで、主人公の岩太がお経を唱えているやつであることもあるが、彼が発する言葉、彼に発せられる言葉がまるで念仏なのである。

「おまえみたいな独断と偏見と差別感にあふれた★ソババアは早く死ねっ」
「親不孝者今頃わかったのか早くクソして死ねっ」
「お前は日本の害虫だ」
「この変態バカ早く死ねっ」
「お兄ちゃんウルトラ光線があたったぞ早く死ねよ」
「うううあんたバカみたいな顔しているけどいいこと言うのね」

こんなに「死ね」がすがすがしい朝顔のような感じになってるのは中沢啓治だけである。この口まねをして堕落したネット民は、その悪口自体が目的化して、つまり唯円が言う学問が目的になってしまったバカ共とおなじで、もともと根性がおかしかっただけだ。中沢のせいではない。