高校のころ、家で手乗りインコを肩に乗せて楽しく生活していた。ときどきインコがウンコする。だからわたしはいまでも蝉からおしっこかけられてかえって嬉しかったりするのではないだろうか。できれば細も肩に乗せたいくらいである。
というのは、冗談だとしても、我々は自分をつくるために、自分と二重写しになりうる何かを必要としている。宇佐見りん氏がぬいぐるみかかえて執筆したらいい調子とおっしゃってたが、わたしもむかし左肩にネズミのるいぐるみくくりつけて書いたらけっこうよかった。この変態がと思われるのは百も承知であるが、執筆というのはかくも狂っている行為なのである。わたくしは、小学校の絵日記というのは、けっこうよい手段だと思うのだ。自分の分身を定着出来るからだ。文字では無理なのである。高校の非常勤してたときに、あるクラスの子達がみんな鞄に隠せるぐらいのぬいぐるみ持っててそのときにはちょっと馬鹿にしてたけど、あれは友達というか分身というかトーテムというか、なんなんだろうね。。。
芥川龍之介もドッペルゲンガーに恐怖してないで、ぬいぐるみもって書けばよかったのではないかと、いまは本気で思っている。
ラ・モオルは、――死と云ふ仏蘭西語は忽ち僕を不安にした。死は姉の夫に迫つてゐたやうに僕にも迫つてゐるらしかつた。けれども僕は不安の中にも何か可笑しさを感じてゐた。のみならずいつか微笑してゐた。この可笑しさは何の為に起るか?――それは僕自身にもわからなかつた。僕は久しぶりに鏡の前に立ち、まともに僕の影と向ひ合つた。僕の影も勿論微笑してゐた。僕はこの影を見つめてゐるうちに第二の僕のことを思ひ出した。第二の僕、――独逸人の所謂 Doppelgaenger は仕合せにも僕自身に見えたことはなかつた。しかし亜米利加の映画俳優になつたK君の夫人は第二の僕を帝劇の廊下に見かけてゐた。(僕は突然K君の夫人に「先達はつい御挨拶もしませんで」と言はれ、当惑したことを覚えてゐる。)それからもう故人になつた或隻脚の飜訳家もやはり銀座の或煙草屋に第二の僕を見かけてゐた。死は或は僕よりも第二の僕に来るのかも知れなかつた。若し又僕に来たとしても、――僕は鏡に後ろを向け、窓の前の机へ帰つて行つた。
――「歯車」
第二の僕とは、芥川龍之介そのものだったのだと思う。このような分身問題が深刻なのは、我々に限らず、近代の文章は、一種の言文一致を目指していて、分身をそのままにしておくことが出来ない。大学院の頃だったら、むしろ新しい文語をつくるんだみたいな意識があった。分身というより自分の芸術的彫刻をつくっているかんじである。まわりにもそういうのがいたとおもう。しかし、世の中うまくいかないもので、心にもないことをいう文体というものに彫刻がなってしまうことがある。
不思議なことに、何もしてないのに、昨年よりとても文体がねじ曲がった感じになった。柳田と折口のせいかもしれない