
「一念に八十億劫の重罪を滅すと信ずべし」ということ。この条は十悪・五逆の罪人、日ごろ念仏を申さずして、命終のとき、初めて善知識の教えにて、一念申せば八十億劫の罪を滅し、十念申せば十八十億劫の重罪を滅して往生すといえり。これは十悪・五逆の軽重を知らせんがために、一念・十念といえるか。滅罪の利益なり。
そりゃそうなんだろうが、人間、案外、行為の効果をちゃんと示されるとやる気が出てくることもあるから、お前の八〇億の罪を消したいんなら、八〇億お経を唱えろ、根性でやり遂げろ、はいはじめっ、と言われるやるやつはいる。
なんだか、深い日本文化の世界は、どことなく、AをすりゃBとなるという単純さの持つ魅力を、場所における不確定な作用とか、しらないうちに自我が出来てました、みたいな理屈で回避したがるところがある。確かに自分の認識の範囲なんか嘘に決まっているが、他力の作用を待つことで、――ウルトラマンや怪獣が来ないかな、みたいな生き方になりがちなのもたしかなのである。
すると、我々は何かに使われていた方が楽ということになる。ウルトラ警備隊に雇われた気分になってりゃ、安保条約や憲法について考えなくてもいいわけだ。実際、我々の社会は、戦いによって根源的な不安を覆い隠している。確かに戦争はしていないが、高校野球とか受験がそれにあたる。PLにしても大阪桐蔭にしても、よくわからんがたぶん契約があって(――清原氏が甲子園に出たらピッチャーをやることになってたらしい。実際に投げてた。)、プロ野球と一緒で、高校球児を雇っていると見た方がよいのだ。しかし、これは進学校もおなじで、成績のいい子を雇って自分の学校の進学実績にするわけだ。ほんと「チーム学校」とはよく言ったもんだよな、洒落じゃないんだよこれは。
18まで学校+塾/あるいは部活ということで、強制的に残業させられて、精神的に親と教師にたよったまま四年間就職活動をしてまた残業生活に戻る。我々の雇われ人生はかくして終わらない。常識的にかんがえて、これで世界的に活躍しようというのが無理なのである。自分の勉強をずっとしてないからである。自分の勉強は、自分のための勉強ではない。自己肯定感みたいなもんは後者をやってるうちはだめなんじゃないか。本居宣長とネ★ウヨさんのちがいみたいなもんである。
我々の内省は、自己批判をしたら、自分が否定されただけでおわるようになっている。そりゃ、雇われ仕事(戦争)をこなすための勉強をしてきたからである。自分の勉強は、自分に対する勉強であって、これがないと、誰かが指示してくれなくなるような危機が訪れたときに弱い。本当は、親鸞は、他力を言っただけではうまくいかないことを分かっていたのではないかとおもうのである。他力というのは、自分の勉強をすることなのである。