「唯円房はわが言うことをば信ずるか」と仰せの候いし間、「さん候」と申し候いしかば、「さらば言わんこと違うまじきか」と重ねて仰せの候いし間、つつしんで領状申して候いしかば、「たとえば人を千人殺してんや、しからば往生は一定すべし」と仰せ候いしとき、「仰せにては候えども、一人もこの身の器量にては殺しつべしともおぼえず候」と申して候いしかば、「さてはいかに親鸞が言うことを違うまじきとは言うぞ」と。「これにて知るべし、何事も心にまかせたることならば、往生のために千人殺せと言わんに、すなわち殺すべし。しかれども一人にてもかないぬべき業縁なきによりて害せざるなり。わが心の善くて殺さぬにはあらず、また害せじと思うとも百人千人を殺すこともあるべし」と仰せの候いしは、我らが心の善きをば善しと思い、悪しきことをば悪しと思いて、願の不思議にて助けたまうということを知らざることを、仰せの候いしなり。
吉本隆明の「歎異抄について」をはじめとして、歎異抄の後半は唯円の護教的なところがあるといわれていて、そうかもしれないとは思う。本多顕彰も、仙人殺すというのは縁なんだよ、みたいな大げさなエピソードがいるか、いらないだろう、と言っている。
それにしても、大物の宗教者があんまり本を書かずに、弟子が書いているのはなぜなのであろうか。
思うに、その人を見て耳で聞いた認識よりも、文字が当てにならないというのはある。教師たちが書く文章はほとんど信用出来ない。なぜか嘘ばかりかく習性すらある。ほんとうの姿は、教え子たちにしかわからない。――というのは不正確で、教え子もそれを文字にしようとすると嘘をついてしまうのだ。
しかしだからといって、吉本のように「人間がなくして浄土が要るか、これが彼が抱いた確かな思想だ」とだけ言ってればよいというものではなく、――吉本自身も、それから膨大な親鸞論を書くに至る。
言葉はいまだに呪いであることをやめていない。吉本もそれは分かっていて、呪いを超えた境地に到達しようと量に期待した。彼は弁証法論者なのだ。
さっきテレビで、「鎌倉殿の13人」の脚本の方が、読書感想文の書き方みたいなものをふざけてやってて、もちろん、これはふざけているわけだが、これを本気でとる人が結構いそうなのがまずいわね。。。。現実にショートカットにつながる言葉という呪いが、我々に掛かっている。こうなるとどうなるかと言えば、例えば「無知の知」なんかも、それが現実の物語であることをやめて、一度ガス欠したバイクみたいに、故障しやすくなるというのがある。それは「知」に過ぎなくなっているからである。