★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

風景は待っていてもあらわれない

2010-07-26 16:02:28 | 文学
父から送られてきた、祭の写真である。水無神社からみこしが出発するところである。

我々世代以下が肝に銘じておかなくてはならないのは、こういう写真だって手間暇がかかっているということだ。というのは、写真に写っている人々がまずはそこに居ることが必要だったということである。そこにはいろいろな人々の行動の積み重なりがある。伝統が生きているというのは非常に大変なことなのである。

国木田独歩が「武蔵野」を描いているうちに、次第に人々の生活に引き寄せられていってしまったのは、風景の中に人がいたからではなく、風景そのものが人々によって造形されていたことに気が付いたからではなかろうか。自然主義や私小説の伝統がなかなか強固なのは、一方でこういう風景を因襲とみなして日本的現実を勝手に超えようとする輩に対して、――潜在的に長い間、不満が蓄積していたからではないかと、私はときどき思う。近代文学の保守的な側面を無視してはならない。


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