★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

すべてを引き受ける?

2019-07-26 23:11:09 | 思想


茂木健一郎が晩年の吉本隆明と対談した本で『「すべてを引き受ける」という思想』というのがある。そのなかで吉本が、易しく表現しながら程度が低くならないような文体を追求している、しかしそれは難しく、なぜかというと「言葉を易しくすると、なんとなく啓蒙的な感じが出てきてしまうから」と言っていた。これ以降、日本語はウェットだとかフランス語が案外論理的とか、よくありそうな内容でつまらなかったが、――言葉を易しくすると啓蒙的な感じがするというのは、全く同感である。

わたくしも論文の文体でいろいろ言われたもんであるが、易しくすると読者に失礼な気がするという感じがいつもしていた。「分かって貰ってなんぼだ」と力説している院生は昔から多かったが、だいたい非常に思い上がりが激しいタイプで、そうでない人はそういうことは言わないのである。

吉本の文体だって、そんなに晦渋だとは思わないのである。リズムによって表記が変わったり言葉が変わったりするからそこに論理と論証を読もうとする人は混乱するであろうが、談話を聞いているつもりになれば、気分はわかりやすい文章である。あと、結論が出ていないことを怖れないことが必要であり、とりあえず不満があって文句を言ってくる家族だと思えば良い。「だから何が言いたいのだ」と言ってはいけない。吉本だって考え中なんだから。

吉本氏は文体の心配なんかする必要は実際のところあまりない。問題はそれよりも、ファクトに対する関心が途切れてはいけないところで途切れる癖の方である。上のように、家族のケンカみたいなところがある人だからいいのかもしれないが、吉本にかぶれた多く人たちが似たような態度でファクトを軽視しでかい空想ばかりしている。それは吉本の非常にゆっくりな(何年もかかる)論証と膂力あっての作法なのだ。

深沢七郎の『生きているのはひまつぶし』には、三島由紀夫の文学は少年文学だとあって、それに気づいたからやつは政治に行った、あの死は「自然淘汰」だとあった。そうかもしれない。本当のところをいえば、吉本も詩から逃げて評論をやっていた風はあると思う。