
今日は古本屋で本を買えたので気分がよかった。徳富蘇峰の『精神の復興』とザーリスの『ギリシヤ芸術』の翻訳。
徳富蘇峰は、さまざまな時にちょこちょこと読むんだが、なんだか記憶に残らず、昨年ゼミ生の卒論の都合で、巨大ベストセラー『大正の青年と帝国の前途』を読んでみたのであるが、なんという形式論理――という感じで、吉野作造みたいにこれを「老翁の繰言」とは思わないが、なんというか、ある種の理性的働きが強すぎるという感じがする。
例えば、明治30年代の文章に「『ぽち』を悼む」というのがあり、「犬殺し」?に長男の愛犬が殺されたエピソードなのであるが、たとえば二葉亭の「平凡」の同じようなエピソードに比べて非常に道徳的というか宗教的なのである。じぶんも悲しくなったんで、マシュー・アーノルドの詩で自分を慰めたみたいなことが書いてあり、上の本では省略されていたが、訳文まで長々と載せた。アーノルドのその詩がどういうものかわたくしは知らないが、――その前に、自分の息子をよくよく観察すべきなのだ。本当に彼は悲しんでいたであろうか?どのように悲しんでいたであろうか。犬の視点で書かれた芥川龍之介の「白」までいかなくても、精神の内実に分け入って行くべきだと思うのだが、蘇峰はあまりそういうことはしない。
とはいえ、蘇峰は別に文学者でないので――という風に簡単に片付かないところが面白い。鷗外や蘆花にとって蘇峰は半身なのであり、中野正剛なんかにとっても半身である。こういう半身を失った戦後の文学と政治は、自分の半身を吉本風の「大衆」みたいに考える他はない。これはだいたいの場合観念なので、考えている本人も不安でしょうがない。90年代の左翼がそれをやめて顔の見える隣のマイノリティに標準を合わせてしまったのも別にポストモダンのせいじゃない。小沢一郎なんかは結構頑張ったのであろうが、彼みたいな政治家が頑張れるためには、かえって、例えば読売新聞などに蘇峰風の論客のナショナリスティックな論が硬直してつっかえ棒になっていなければならない。が、この新聞を含めてマスコミというのがふにゃふにゃしていて、これまた半身を求めているような状態なのだ。新聞が大衆を半身として自らの論を立てなくなったことにつきるわけだが、結局、こういう場合、果ては確かなのが法律とかになってしまうわけである。
というかんじで蘇峰を偶像化して考えてみてもしょうがないのであろうが――。似たようなことは、教育の世界や学術の世界でもある。個人主義を批判する輩は、まったくこの辺の事情が分かっていないのではなかろうか。